『彼女は頭が悪いから』のこと

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

 

 姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』を読んだ。2016年に東大生5人が起こした強制わいせつ事件をモチーフにした作品で、被害者となった女性「美咲」と、彼女を現場のマンションに連れ込んだ張本人である「つばさ」の2人を中心に据えつつ、事件に関わった人々の心情や立ち位置を細やかに描いた作品だ。題材が題材なので、ジェンダー論やフェミニズム的観点からも逃れることはできない。

 正直に言えば、私は姫野カオルコについて「整形の話とかを赤裸々に書いてる女流作家」というイメージしかなかった。可愛らしい名前に惹かれて、小学生か中学生くらいの時に図書館で一度本を手にとった記憶があるが、それがなんというタイトルだったか、最後まで読み通せたのかすら覚えていない。

 私が『彼女が〜』を手にとったのは、そこにフェミニズム的な主義主張が書かれていることを期待したからだ。事件が報道された当時、世論の中に、確かに「自分でノコノコついて行ったくせに訴えるなんて、とんだ勘違い女だ」という風潮があったのを覚えている。だから、それに対する強烈なカウンターを期待していた。作者の主張の代弁者のような登場人物が颯爽と現れて、被告の女性を誹謗中傷する人間たちに人権とはなんぞやという話を説いて聞かせる——とまでは思わなかったけれど、とにかく、そもそも題材からして、フェミニズム的主義主張が第一にやってくる作品になるだろうと思っていた。

 けれど、本を開いて最初に読み始めた時、私が最初に抱いたのは、作者のジェンダー観への共感でもなく、フェミニズム的主張への賛同でもなく「姫野カオルコ性格悪っ!」という感想だった。これは褒め言葉です。

 本作の中には、沢山の「己の感性に無自覚なひとびと」が出てくる。たとえば主人公の美咲は、ごく善良でのんびりとした、けれど決して教養豊かとはいえない両親のもとで育った、自分の善良さと無知に無自覚な女性だ。反対に東大生のつばさは、高学歴で高所得の両親のもと育ち、自らの優秀さを疑ったこともなく、己の境遇の幸福さと肥大化した自意識に無自覚な男性だ。

 それがよいことにしろ悪いことにしろ「自分に対して無自覚」な人間は沢山いる。私自身、物心ついた時からずっと「自覚的でありたい」と思い続けていて、それでも時々それが上手くいかないことがあるから、彼らの「無自覚さ」を執拗に、残酷なまでに克明に描き出す冷徹さに衝撃を受けた。

 登場人物の誰もが自らに対して無自覚で、姫野カオルコの視点である地の文は、彼らの無自覚さを、何度も何度も、それこそ「無自覚な人」でも分かるように丁寧に、執拗に解説する。そのひんやりとした視線に同調しつつも、心のどこかで、自分にも彼らと同じような無自覚さがあるのではないか、仮に自分の振る舞いをどこかで姫野カオルコが見ていたら、この「地の文」にはどんな風に解説されるのだろう、と思って、急に恥ずかしくなる。そんな残酷さが、この小説にはあった。

 人は結局、自分以外の誰かの視点は持ち得ない。だから簡単に誰かを「馬鹿だ」と非難したり、反対に手放しで「あの人はすごい」と称賛してしまったりする。平たく言ってしまえば「人間関係における、あるある」なのだけれど、その「あるある」を後に起こる事件と絡めて、色々な意味で「痛々しく」描ききる手腕には壮絶なものがある。普段からこういう風に冷たい目で他人のことを見ていなければ、ここまで生々しくは描けない。だから「性格悪っ!」と思ったのだ。

 ジェンダーフェミニズムの話を期待して読んだだけに、これは私にとって衝撃的だった。これはジェンダーの小説である前に、人の自意識の小説だと思う。

 ただ、ひとつだけ気になる点があったとすれば、それは作品の中で何度も繰り返される「東大生」という生き物に対する画一化だ。ひとくちに東大生といっても、いろんな人がいる。あいにく私の周囲に沢山の「東大生」のサンプルが存在するわけではないが、東大生だって当たり前に人間なのだし、そのくらいはわかる。これだけの切れ味であれだけの小説を書けたのだから、姫野カオルコもそれはわかっているはずだ。

 にも関わらず、本作に登場する「東大生」および「世間一般的に言われる『頭のいい人』への描写は、「自意識」についてのそれと比較すると、余りにも雑で、もっと言えば、偏見に満ちているように思える。

『彼女は〜』に登場する東大生は、そのほとんどが「自分の境遇や在り方に何の疑問も抱かずに、受験戦争というシステムに適合して生きてきた、ある意味では優秀だが、情緒はほとんど発達していない人間」として描かれる。唯一の例外は主人公つばさの兄だが、彼はこの作品が示すところの「東大生ルート」から自ら外れる道を選ぶので、厳密には「姫野カオルコ的東大生」とは言えないだろう。

 ここで言う「東大生」とは、一定以上裕福な家に育ち、子供の頃から優秀で、受験のシステムに適応できるだけの「単純さ」と「無垢さ」を持ったまますくすくと育ち、その後はやはり「優秀な」人間として、誰もが羨ましがるような職に就く人間を指す。

 つばさの兄は、司法試験を諦め、祖父母の実家である北海道で教鞭を執る道を選んだことで、親が用意した「東大ルート」から外れた。この進路をどう思うかは人による(と、姫野カオルコも書いている)が、少なくともつばさの家庭にとっては、それはドロップアウトだった。つまり、つばさの兄は「画一化された有能人間製造機」から逃げ出した人間として描かれているのである。

 そして、その道を選び取った兄の心情は「無自覚」を貫いてきたつばさの視点でしか描かれない。つまり、そういう兄を、つばさは「馬鹿だなこいつ」と冷めた目で見ているのだ。勿論、その事実自体が、翻ってつばさの無自覚さを強調する材料として描かれてはいる。「優秀な」つばさは、「優秀でなくなった」兄が理解できない、理解しようとするだけの情緒もない、ということが、批判的な視線で描かれている。

 だが、それだけだ。たとえばつばさの周囲の東大生で、つばさたちと同じように「優秀な」ラインに乗っかってここまで来て、そのまま、優秀なままに駆け抜けていく学生の中に、つばさの兄のような人間はいない。大抵はつばさに理解できないような言動をとって「ドロップアウト」していってしまう。そこに、つばさたち「優秀な東大生」が見下せる要素が存在するキャラクターとして描かれる。

 勿論、そこには、主人公であるつばさの友人関係が、東大の中でもごく狭い理系の一部に限定されているという事情も絡むだろう。理系のごく一部の、似たような人間とつるんでいるわけだから、皆つばさと似たような思考回路をしている。それは当たり前だ。

 加えて、ただでさえ「美咲」と「つばさ」という、境遇も感性も異なる二人が主人公なのだ。彼らを取り巻く人間関係も描写しなければならないのに、更に「東大生の例外パターン」についても丁寧に取り扱おうとすると話が散らかってしまうであろうということはよくわかる。……けれど、それにしたって、一応「つばさや、彼の友人のような東大生ばかりではない」という但書は、もう少し丁寧につけてあげてもよかったのではないかと思う。

 これが、つばさと美咲の心情にばかり焦点を当てた小説であれば印象は違っただろう。しかし、つばさや美咲以外の人間にもそこそこスポットライトが当たり、更に彼らの心情や「無自覚さ」を、何度も何度も丁寧に、残酷なまでに描写するのであれば、同じくらいの丁寧さで「そうでない東大生」のサンプルを取り上げてもよかったのではないかと思う。たとえば、つばさたちと同じような「優秀ライン」に乗っかって、つばさの兄のようなドロップアウトもせず「優秀ライン」のまま世に出ていきながらも、その実胸の内では葛藤を抱えている「東大生」というような。

 つばさたち「無自覚な東大生」の心情描写が丁寧であるがゆえに抱いた感想だ。

『彼女は頭が悪いから』は、東大の購買で平積みになったらしい。手を伸ばした理由も読んだ感想も人それぞれだろう。当たり前だ。東大生も当たり前に人間だからだ。

 中には、作中に描かれた「東大生」の在り方を見て、もやっと感じた現役学生もいたのではないかと思う。きちんと姫野カオルコの小説を読み込めばフォローがあることは理解できるのだが、それにしたって「嫌な東大生」と「いい東大生」の描写の丁寧さに差がありすぎる。

 もしかしたら尺やストーリーラインの整理の都合上削られてしまったのかもしれないけれど、「悪意」の解像度が高すぎたが故に、「善意」についても、もう少し解像度を上げてほしかったな、と、素人目線ながらそんな感想を抱いた小説だった。

貧乏のこと

 お金がない。理由は自分でわかっている。今まで、収入以上に使ってきたからだ。それ以上でも以下でもない。あたりまえの理屈である。消費カロリー以上に食べるから太るのと同じだ。

 スマホゲームのガチャ、かわいい雑貨にぬいぐるみ、周囲に人として最低限の常識とマナーがある存在だと思ってもらうための洋服、ついつい終電まで遊んだ時にぽんと払った飲み代。そういうものが積み重なって、いつしか前の月のカード代を払ったら今月の生活費が赤に、その分をカードでどうにかして……という自転車操業を、ここ1年ほど続けていた。けれど、それをネタにして笑っていたのは元気に働いていられた頃だけで、休職して傷病手当金を待っている状態の今、どうやって食いつなごうか、というのが目下の課題になっている。

 実家に身を寄せているのだから親に全てを詳らかにして、土下座でもして借りればいいじゃない、とも思うのだけれど、これについては自業自得以外の何ものでもなく、既に衣食住の面倒を半ば以上見てもらっている親に対して更に負担をかけることになるのはしのびない。

 ……というのは言い訳で、正直今のお財布状況を知られたらどんな反応をされるかわからないので、それが怖くて黙っている。

 思えば、お金についてはずっと昔からそんな調子だった。中学だか高校のころ、親から貰って貯めていたお小遣いを使い込んだことがバレてひどく叱られて以来、自分の金銭事情については、親にだけはひた隠しにする日々を続けている。友人だの同僚だのには散々話してネタにしているのに、だ。大学時代、食費が底をつきて毎日うまい棒を食べていた時も、家賃が払えなくて趣味のコレクションを泣く泣く売り払った時も、残高が四桁しかない通帳を見られた時も(その時についた嘘のせいで、私は今、いくつかの銀行口座を並行して使っていることになっている)。

 ひどく叱られたことがトラウマなら、そもそもお金を使い込むのをやめればいいのに、こちらの悪癖は年齢を重ねるごとに酷くなっていっている。学生時代と比べれば収入は確実に増えているのに、毎月の支出はなんと学生時代以下なのだ。おどろき。一体何にそんなに使ったのだろう、と調べてみても、性根が雑な私は全てを「雑費」に詰め込んでしまうので、家計簿も何の意味もなさない。

 不幸中の幸いは、うつになってほとんどお金を使わなくなったことだ。アパートで一人暮らしをしていた頃は食事なんて1日に1回するかどうかだったし、当然人と遊びに行くこともなければ、新しい洋服を買うこともない。だから、無事に傷病手当金を受け取って、今まで積み重ねたカードの支払を終えれば正常化できるはずだ。たぶん。

 子供の頃は、大きくなったら自分の悪いところ、だめなところは全部消え去って、当たり前のようにまともで真っ当な「おとな」になれるのだと思っていた。実際のところ大きくなったのは図体だけで、自分の周りにも「ウン十年間ずっとこんな調子でよく今まで生きてこられたな」という「おとな」が山ほどいる。実際私も、十分だめだめな大人だ。

 今までの自堕落な生活で積み上げた負債を全て整理して、きちんと復職して、今断ってしまっている人間関係を取り戻して。……そうしてはじめて、私はいろんな人達に堂々と顔向けできる「おとな」をやりなおせるのかもしれない。

 なんて綺麗に締めたけれど、要はお金がなくてどうしよう、という話。無いものは無い。どんなに頭を捻っても絞り出せるものじゃない。どうしましょうね。

エイプリルフールのこと

 エイプリルフールが嫌いだ。……と言うと、流行り物やお祭り騒ぎには取り敢えずケチをつけるひねくれ者のおじさん、おばさんが書く新聞の読者投稿欄みたいに聞こえるかもしれないけれど、別に「猫も杓子もエイプリルフールと悪ふざけを持て囃すのはいかがなものか」とか、そういうことが言いたいわけじゃない。むしろ私は悪ノリとか馬鹿みたいな冗談とかは好き、いや大好きな方だし、ニコニコ動画で「才能の無駄遣い」とか「努力の方向音痴」とかコメントがつくような動画をたくさん観ていた時期もあった。プレイしているソシャゲは今年もこぞって楽しい企画を用意してくれたし、思い切りそれらにあやかっているので、寧ろ世間的に見たら「エイプリルフールが好きな人」だと思う。実際、エイプリルフールは好きだったのだ。去年までは。

 去年の末ごろ、たしかクリスマスが過ぎた頃合いだったと思う。会社の偉い人から「来年のエイプリルフールの企画を作って欲しい」という通達があった。もちろん名指しで私が抜擢されたわけではなく、チーム全員へのお触れのようなものだった。

 が、それが、なぜか私の担当になってしまった。

 明確に「夜子さんが中心となって動いてください」と言われたわけではない。上司に相談されて(多分チームの中で一番若いからとか、SNSに親しんでいるからとか、そういう理由だと思う)、そのまま、じゃあ企画書お願いね、という流れになってしまったのだ。多分、世の中の会社ではよくあることだと思うのだけれど。

 常日頃の私なら、その手の仕事は喜んで引き受けたと思う。1日限りの冗談のためにお金を動かしていいのだ。自分の考えた冗談を実現させるためだけに、堂々と人の手を借りていいのだ。しかもそれがウケたら褒められるのだ。最高じゃないか。

 ただ、その時私は既に、精神的にも体力的にもかなり疲れていた。日頃の仕事をなんとかこなすので精一杯だったし、それにしたって、明らかに以前より能率が落ちていることが、ひしひしと身にしみて感じられていた。でも、断れなかった。

 他に誰もやる人がいないから。少なくとも、当時の私はそう思っていた。後から振り返れば、年が明けて休みがちになり、遂には休職した私の代わりに職場の人たちが全ての仕事を引き継いでくれたのだから、「私がやらないとやる人がいない」なんていうのは全くの嘘なのだけれど、とにかく私はそう信じていたのだ。もしかしたら信じたかったのかもしれない。

 それで企画に着手した。身バレが怖いので詳細は伏せるけれども、かなり様々な制約があった。求められている規模感に対して与えられた準備期間、使用できる素材や手を借りることのできるメンバー。上からも下からも、いろんなことを言われた。それでもなんとか企画書を完成させたけれども、提出したそれは、「なんか違う」と言われたり、「もっとド派手にやってほしい」と注文がついたり、最初は無かった条件を上乗せされて突き返された(少なくとも、私にはそう見えた)。

 これ以上職場の不満をぐちぐちと書き連ねるつもりはないのだけれど(人の愚痴なんて、誰だって好きこのんで沢山聞きたいとは思わないだろう)、そういうことを繰り返すうちに、その他の仕事のストレスも相俟って疲れ切ってしまったのだ。他にもいろいろ理由はあったのだけれど、私が休職まで至った理由のひとつに、確実に「エイプリルフール」は絡んでくると思っている。

 昨今、エイプリルフールはきっと、BtoCの多くの企業にとって大イベントだ。今年も面白い企画がたくさんあった。私が途中でいなくなったせいで誰かが引き継ぐ羽目になったエイプリルフール企画も、ささやかながらきちんと世に出ていた。そういうものを見つつ、どうしてもその裏側で、年々厳しくなっていく制約に喘ぎながら企画を作らされている誰かのことを考えてしまう。スタッフが本当に楽しんでいるのならいい。やりたい人たちがやりたいことをして、余力のある企業がそれにお金をかけて、よかったね、と笑い合えているのならいい。でも、もしも「四月馬鹿」のために毎年胃を痛め、「たった1日のためにこんなに力を入れるなんて馬鹿げてるなあ」と笑いながらリツイートボタンを押して貰う、それだけのために毎日遅くまで泣きながら残業している人がいるとしたら、エイプリルフールなんてせーのでやめてしまった方がいいんじゃないか、と思うのだ。

 日本の同調圧力、という論調では決して語りたくないけれど、最初はユーモアのわかる誰かがプラスアルファで初めたことが、いつの間にか義務になって、みんなを苦しめる悪しき習慣になってしまう、みたいなことは、これ以上あってほしくない。そういうのは年賀状とか、お中元お歳暮だけで十分だ。

 そんなことを考えながら、FGOのエイプリルフール企画で配信されたFate/GrandOrder Questをプレイしている。とても手が込んでいて凝っている。面白い。……どうか、これに関わった全ての開発・広報スタッフが楽しんで作ってくれていますように。

新元号のこと

 新元号が「令和」に決まったらしい。仕事の関係上、エンジニアとも関わりが深かったので、元号が事前に決まるのはよいことだなあ、とぼんやり思う。発表の瞬間は母親と一緒にテレビに張り付きつつ、手元でTwitterも開いていたのだけれど、誰も彼もがお祭りムードで、平日の昼間なのに一瞬でタイムラインが濁流のように流れていって「一大イベントの渦中にいるんだなあ」という感じがした。

 昭和半ば生まれの人たちにとっては「自分たちが見られる最後の元号かもしれない」という感覚があり、平成生まれの人たちにとっては生まれて初めての「元号が変わる瞬間(まだ変わってないけれど)」として受け入れられた令和。天皇崩御していないので、祝賀ムード一色で新元号の話題を持ち出せるのもこの雰囲気に貢献しているのかもしれない。

 そんなことを思いつつ、実家のテレビをぼんやり眺めて「ああ、私は今後『そうそう、あの年の4月は新元号発表があってさ〜』という話題になるたびに『あの時は休職していたっけ……』とこの日を思い出すんだなあ」と考えていた。新元号に切り替わる日は、どこで何をしているんだろうか。

紹介状のこと

 とある出来事から数日が経ち、当初のショックやそれに連鎖した落ち込みからようやく回復してきたので、個人的な備忘録として書き留めておくことにした。正直に言ってこれを書いている今でも、(いろいろな意味で)日記として言葉にして記録しておくことを迷っているので、途中でやめたり、後から消したりするかもしれない。

 と、勿体ぶって書き始めたけれど「とある出来事」の全貌はとてもシンプルだ。医者から貰った紹介状を開封した。そこに書いてあったことに、ショックを受けた。おしまい。

 一応、言い訳がある。紹介状は開けてはいけないものだと知らなかったのだ。外側に他人の宛名が書いてあるんだから開けちゃいけないに決まってるやろがい、と思われるかもしれないけれど、これにもまた言い訳がある。

 そもそも、私が今通院している医者に紹介状を書いてもらう必要が生じたのは、地元の北海道に帰るからだった。東京では近所のメンタルクリニックに通院していたけれど、まさか北海道に帰ってからも週に1回飛行機に乗って受診するわけにはいかない。しかし、休職中の身で医者に罹らずふらふらしているわけにもいかないので、かかりつけ医に事情を説明し、紹介状が欲しい、と申し出た。

 1週間ほど待ってくれ、と言われて渡された封筒には、単に「担当医先生」としか書いていなかった。紹介状と言うからには特定のお医者さんを紹介してもらえるのだろうと思っていた私は、1週間のうちにいくつか知り合いだの、同じグループ(?)だののお医者さんを当たってくれたのかしらと考えて、中に病院のリストでもあるに違いない、と、軽率に封を開けてしまったのだ。

 今から思えば、常日頃の私らしくない行為だったと思う。いつも覗き込んでいる小さな箱はただのゲーム機ではないだろうに。そこはggりなさいよ私。だいいち、休職するため職場に診断書を持っていく時だって、事前に開封して大丈夫なのか念入りに調べたのだ。今から思えば、その時「大丈夫」という結論が出たから今回軽率な行動をとってしまったのかもしれないけれど。

 まあ、言い訳はこの辺にしておいて、とにかく封を開けて中を見た。それで、それなりのショックを受けた。

 そもそも、私は「紹介状」というのは、単に繋がりのあるお医者さん同士で「うちの患者さんがこういう事情で行くからよろしくね」という挨拶程度に使うものだと思っていた。詳しいことは、病院同士でカルテの取寄をしたりとかなんとかするんだろうなあ、くらいのぼんやりとしたイメージしかなかったのだ。

 それが、思ったよりもかなり詳しく、お医者さんから見た「私」の現状について書かれていた。そうして、その詳細が、私が想像していた内容と、180度……とまではいかないけれど、90度くらい違っていたのだ。

 詳細については記載しないが(ワールドワイドに自分の病状を発信するのはなんだかな、という気持ち以上に、事細かに自分の手で文章にしてあげつらっていたら、また憂鬱になりそうなので)、端的に言えば、お医者さんは私の話をあまり信用していないのだ、と読み取れるようなことが、そこに書いてあった。断酒も服薬も、それなりに真面目に実行してきたつもりなのに、「まあ本人はそう言ってますけど、本当かどうかはわからないですね」くらいのテンションで記載されている。どうしても起きられない日があって、予定していた診察日に行けなかったことが何度かあったのだけれど、通院も不定期になりがちだし、あまり治療する気がないのではないか、といった語り口で書かれている。

 もしかすると、これはいわゆる「お医者さん文法」というやつなのかもしれない。24時間365日私を見ているわけではないのだから、当然お医者さんから見た事実は、あくまで「患者はこう言っている」という、それだけだ。だからそういう書き方にならざるを得ないのであって、別にそこにはなんの含みも無いのかもしれない——けれど、書かれていた文章は、一瞥して衝撃を受けるには十分だった。

 他にも、私が以前もメンタルクリニックに罹っていたことがあることを指して「もしかすると内因性のうつだったり、パーソナリティの問題かもね」みたいなことも書かれていて、また衝撃を受けた。こちらについては、どちらかというと「当時罹っていたときには割と特殊な事情があって、そのときのことは軽くしか話していないのになあ」という感想の方が大きかったのだけれど。

 ついでに、私の家庭事情について、父と母が全く逆に書かれていて、少しだけ笑ってしまった。もしかしたら私の話をちゃんと聞いていなかっただけなのかもしれないけれど、まあ上述した諸々を見て、それなりに信用していたお医者さんが、私のことをそんな風に見ていたのか……と、ショックを受けたのである。

 人から、自分に対する率直な感想を聞く機会はまず無い。そこに人間関係がある以上、周囲の人々はどうしたって遠慮するし、気を遣う。仮に私に致命的に悪いところがあったとして、別に赤の他人なんだし、わざわざ嫌われるリスクを冒してまでそれを指摘してあげよう、と思ってくれる人はなかなかいない。

 ……もしかして、私の周りのみんな、口にしないだけでこういう風に思っていたんじゃないか。お医者さんは仕事だから我慢していたけれど、本当は私が受診するたび「こいつ本当なんなんだよ、治す気も無いし、ただ甘えてるだけか?」とイライラしていたのではないか。そう思い始めると、東京に戻った時、普通の顔でまたあの病院に通えるか、少しだけ自信がなくなってしまったのだ。

 開封した紹介状は、今私の手の中で持て余している。開封した後に調べて(遅いのはわかっている)本来開けてはいけないものを開けてしまったのだとわかったわけだし、そもそも特定の宛名が書いていないので、自分でいちからクリニックを探すことになる。私の地元は超ド田舎というわけではないけれど、電話1本で数日後にサクッと予約がとれるような病院を探すのは、なかなか骨が折れる(事実、何軒か電話してみたけれど、みんな予約が取れるのが2週間以上先、と言われてしまった)。どのみち東京に帰るまでのつなぎのような形での受診になるのだから、じゃあ来月来てください、と言われても困ってしまう。

 そういう理由で、この封の開いてしまった紹介状をどうしようか悩んでいる。

 東京のお医者さんから貰った薬の残りは数日分。これが切れたら眠れなくなってしまう。しかし当然、新たなお医者さんに罹る目処もついていない。さっさと東京に帰ってしまおうか。それがいい、と思うのだけれど(これは他にもいろいろと理由がある)、私を心配して手元に置きたがっている親に、それをなかなか切り出せない。

 こうして改めて文字に書き起こしていると、やっぱり憂鬱になってくる。唯一の進歩といえば、友人や職場に無事連絡をとれたことくらいか。友人との約束も職場からの連絡も、私が覚悟していたような状況にはなっていなかった。不幸中の幸いというかなんというか。

 残り少ない錠剤を甘いジュースで流し込みながら、このエントリを書き終えます。

締切のこと

 締切が、刻一刻と近づいている。なんの締切かというと、趣味で書いている同人小説の入稿締切だ。趣味なんだから別に無理して書く必要も無いのだけれど、休職する前、まだなんとか会社に行っていて「多分このまま頑張れるだろう」と思っていた時期に参加申込みをしてしまい、Twitterのアカウントでも告知を行い、挙句の果てに既に表紙のお願いをしてしまっているので、なんとしても完成させなければならないのだ。

 同人で本を作ったことがない人でも想像がつくと思うけれど、こういうものは、入稿から完成までにかかる日数と値段が反比例する。つまり、さっさと完成させてほしければ高いお金を払ってね、ゆっくりでいいなら割引するよ、というシステムだ。

 自慢じゃないけれど、私はかなり筆が早い(いや本当に何の自慢でもないなこれ)。この手の締切を破って、いわゆる「新刊落としました!」をしたこともなければ、常に早割、つまり「早めに入稿するから割引してね」サービスを使ってきた。書くのが早ければ、そのぶん、同じ期間内で沢山の作品が作れる。内容やクオリティはさておいて、物量やスピードについてはそれなりに自信があった。

 ……のだけれど、休職と時期を同じくして、その筆がずうっと止まっている。文章それ自体が書けないわけではないと思う。なにしろ、こうして毎日ブログを書いているのだ。時間が無いわけでも、勿論ない。なにしろ仕事をしていないのだから。暇人中の暇人である。

 確かに、どうしてもベッドから起き上がれなくて寝たり起きたりを繰り返している時間が1日の半分以上を占めるけれど、残りの半分は起き上がって、それなりに活動しているのだ。それに、そもそも小説はイラストと違って、ベッドの中で寝転がったままでも書ける。ゲームができるのなら、小説も書けるはずだ。物理的には。

 それが、どうにもそうならない。もしかすると私は、仕事だけでなく自分の趣味にも甘えているのかもしれない。あるいは、私と同じ薬を飲んでいる誰かが、匿名掲示板で「この薬を飲むと性欲だけでなく創作意欲もガクッと削がれる」と言っているのを読んで、これ幸いと言い訳にしているのかもしれない。

 同じことは、うつと診断されて、会社を休みがちになった時にも思っていた。そもそも会社に行けていないから病院に行ったのだけれど、でも、そこでうつと診断されていなかったら、私はまた、会社にきちんと復帰できていたのではないだろうか? 病気という免罪符を得てしまったから、甘えが肥大化しているだけなのでは?

 でも、仕事はさておき、文章を書くのは楽しかったはずだ。それとも、本当は大して楽しくなかったのだろうか。仕事や辛いことから逃げるための手段でしかなくて、その必要がなくなったら簡単に捨ててしまえるものだったのだろうか。

 たかが同人、たかが趣味なのだけれど、今日も布団の中で、そんなことを考えている。なお、メールボックスもLINEも、まだ開けていない。

誰ともまともに連絡が取れないこと

 表題の通りだ。実家に帰ることを決める前に「この日飲みに行こうね」と約束していた友達に、さっさと「ごめん、実家に帰るからしばらくは遊べなくなった」と連絡しなければいけない。でも、スマートフォンを手に取っても、なかなかLINEが開けない。一覧画面には、相手からの「スタンプを送信しました」が表示されまま、ずっと未読だ。既読をつけたら返事をしなくてはならない気がして、つけていない(まあ、相手は今更既読がついたところで気が付きはしないだろうけど)。

 休職中なので、時々職場からメールで連絡が来る手はずになっている。わざわざ休職者に送るくらいだから、当然大事な連絡だ。この間、産業医面談に関する連絡に返事をしたから、多分その返答が来ているはずだ。はず、というのは、まだ見ていないからである。夕方くらいに起きて、スマートフォンにどっさり溜まったSNSだのメルマガだのの通知を流し見して、それからもそもそとゲームを始める生活なので、大事な連絡が来ていても見逃してしまうのだ。

 当然、今はアパートにいないので郵便物も受け取れない。電話は、多分掛かってきたところで、寝ていたり、何かの業者じゃないかと警戒したりして、とれないだろう。

 頼みの綱のTwitterも(ぬいぐるみの写真を載せるアカウントではなくて、別の趣味、いわゆる同人で繋がっている友人や、リアルの友人にフォローされているアカウントだ)もうしばらく更新していない。

 何が言いたいかというと、今私は、誰ともまともに連絡を取れていないのだ。友人はきっと前日になって予定をキャンセルされて「地元に帰ってるならもっと早く言ってよ!」と思うだろうし、会社の人事は、もしかしたらとっくに締切を過ぎている提出物が来なくてやきもきしているかもしれない。同人関係で私をフォローしていたフォロワーは「この人引退したのかな」と思っているかもしれない。

 端的に言えば、まったく、ブログを更新している場合ではないのだが、多分私は今日もLINEを開けないし、メールボックスを整理しないし、Twitterのタイムラインも見ないと思う。

 リアルの知り合い、友人の皆さん、すみません。明日にはきっと連絡いたします。今日はどんな一日でしたか。私はほとんど一日寝ていました。今からまた布団に入ります。おやすみなさい。よい夜を。