『スタンド・バイ・ミー』のこと

  映画好きの端くれを自称しているので、様々な家庭事情を背景に持つ少年少女のささやかな冒険譚を、「スタンド・バイ・ミー的な」と表現することがある。これは便利な表現だ。『スタンド・バイ・ミー』を観たことがある人は、その一言で作品の雰囲気や繊細さ、危うさを感じ取ることができるし、観たことがない人もなんとなく「子どもたちが小さな冒険をする話なんだなあ」と想像できると思う。この作品は、そのくらい有名で「言わずと知れた名作」だ。

 そんな『スタンド・バイ・ミー』を、かなり久々に見返した。恥ずかしながら、今回見返すまで、私は『スタンド・バイ・ミー』の内容をほとんど覚えていなかった。あれだけ訳知り顔で『IT』を「ホラー版スタンド・バイ・ミーだよ」なんて人に紹介していたのに。やはり私の中でも『スタンド・バイ・ミー』は「スタンド・バイ・ミー的なもの」を指し示すための一つの記号と化してしまっていたのだった。

 偶然TSUTAYAに行く機会があって、そこの「名作コーナー」の棚に並んでいるのを見た時に「そういえば、話の中身をきちんと覚えていないな」と思って手に取った。覚えているのは4人の少年たちが並んで線路を歩いていくシーンと、彼らの目的が「死体を見に行くこと」だったことだけだ。

 家に帰ってDVDプレイヤーを起動した。DVDを観るのなんて久々だったから、何度も「入力切替」を押してプレイヤーが繋がっている場所を探した。約90分間テレビの前で大人しくしてわかったことは、やはり『スタンド・バイ・ミー』は「4人の少年たちが並んで線路を歩いて死体を見に行く話」だ、ということだった。

 あらすじを紹介しろと言われれば、そうとしか言えない。起承転結に書き起こして誰かに聞かせたところで「うわー面白そう! 観てみたい!」とは思わないだろう。思えば、私が最初にこの映画を観た時も、様々な人に「名作だから」「これを観ていなければ到底映画好きなどとは名乗り難いから」と言われたからだったような気がする。

 要するに、あらすじが殆ど存在しない。『マッド・マックス 〜怒りのデス・ロード〜』と同じだ。あれも砂漠を行って帰ってくるだけの映画だった。

 多分、『スタンド・バイ・ミー』はストーリーを観る映画ではないのだ。彼らの会話から、危うい友情と、それが、このひと夏が終われば崩れてしまうものだということを肌で感じとる。それは最後まで言語化されることは無いけれど、やはり主人公たちも肌で感じている。

 私にも「スタンド・バイ・ミー的な」時を過ごした友人が何人かいた。親に嘘をついて一緒にちょっと悪いことをしたり、その時しかできないばかみたいなことをした。彼らの大半はやっぱり成長と共に疎遠になってしまった。けれど、そのうちの一人はいまでもSNSで繋がっていて、こまめに連絡を取り合っている、どころか、今日の夕飯が何だったか、職場でどんな嫌なことがあったかまで知ることができる。疎遠になってしまった他の友人たちにしても、その気になれば似たような精度で情報を得ることができる。

 そういうことを考えると「時代が変わったなあ」と思う。「スタンド・バイ・ミー的な」あの頃は、きっともうどこにも存在しないのではないだろうか。その事実を良いことだと思うか、情緒が失われたと懐古するかは別として。

 ともあれ、これからは胸を張って「スタンド・バイ・ミー的」という言葉を使っていこうと思う。いつかまた「確か4人の少年たちが並んで線路を歩いて死体を見に行く話だったような気がするけど、詳しく覚えてないなあ」と思う日がくるまでは。