理想の人生と命の価値のこと

 通院のたび、主治医に尋ねられていたことがある。「もしもお金の心配もなく、なんでも自分の思い通りにできるとしたら、あなたにとって理想の人生はなんですか?」

 とても難しい質問だと思う。実際、何度か同じことを聞かれたけれど、私は一度も明確な答えを出すことができなかった。「南の島で遊んで暮らす」とか「タワマンに住んで高級エステに通う」とか、標準的でそれらしい答えを出すことは簡単だけれど、多分、主治医が私に望んでいるのは、その場しのぎの模範解答ではないだろう。

 私は自分が嫌いだ。太っているし、顔もうすぼんやりしているし、性格も悪いし、能力も才能もない。お金が無限にあれば痩せて綺麗になることはできるかもしれないけれど、性格の悪さや能力・才能の方はどうにもならないだろう。私が私である限り、私の人生は薄暗いままだと思う。

 別に、自分が特別だとか、変わっているだとかは毛頭思わない。おそらく「自分が嫌いだから、どれだけお金があったとしてもきっと人生は辛い」と考えている人は結構いるんじゃないだろうか。主治医がカウンセリングを勧めてくるのも、きっとそういう人を何人も見てきて「ああ、この人もその手合だな」と思ったからだろう。多分「自分が嫌いだから死にたい」という思考はカウンセリングじゃないとどうにもならないのだ。

 けれど、私は結局今まで一度もカウンセリングを受けていない。だって、私は別に、自分を好きになりたいわけじゃないのだ。私は、自身への自己評価(二重表現だけれど)が決して間違っているとは思わない。自分の見た目や能力を客観的に見た上で、生きるに値しないと思っている。「自分をもっと好きになりたいんです」なんて、口が裂けても言えない。

 片一方で、これが多少は歪んだ思想なのだろう、という自覚もある。だって、どんな人間だろうと「生きるに値しない」存在などいないはずなのだ。そう思うのは、私が人権重視のリベラル派(自称)だからかもしれないけれど。少なくとも、私は周囲の人間に対して、その人がどれだけの悪党だったとしても「生きるに値しない」などというジャッジは下せない。下すべきではないと思う。ということは、翻れば私自身がどれだけ無能だろうと「生きるに値しない」とはならないはずなのだ。……本来は。

 けれど、ここにもうひとつ思想がある。それは「自分の価値を決められるのは自分だけ」という考え方だ。多くの場合、これは人を励ますときに使われる言葉だけれど、「人間に『生きる価値がない』と断じていいのはその当人だけだ」という風にも受け取れる。人は決して他人の命の価値を決めることはできないけれど、他ならない自分自身なら、その権利があるはずだ。

 当初の話からだいぶずれてしまったけれど、そんなわけで、私にはきっと、このさきずっと「理想の人生」なんてものは存在しないと思う。まあ、このさきも何も、上手く行けば10月には死んでいるはずなのだけれど。手っ取り早く(そしてできるだけ楽に)死ぬこと。理想があるとしたら、これに尽きるのだと思う。

 明日も元気に死に向かっていきます。