『彼女は頭が悪いから』のこと

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

 

 姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』を読んだ。2016年に東大生5人が起こした強制わいせつ事件をモチーフにした作品で、被害者となった女性「美咲」と、彼女を現場のマンションに連れ込んだ張本人である「つばさ」の2人を中心に据えつつ、事件に関わった人々の心情や立ち位置を細やかに描いた作品だ。題材が題材なので、ジェンダー論やフェミニズム的観点からも逃れることはできない。

 正直に言えば、私は姫野カオルコについて「整形の話とかを赤裸々に書いてる女流作家」というイメージしかなかった。可愛らしい名前に惹かれて、小学生か中学生くらいの時に図書館で一度本を手にとった記憶があるが、それがなんというタイトルだったか、最後まで読み通せたのかすら覚えていない。

 私が『彼女が〜』を手にとったのは、そこにフェミニズム的な主義主張が書かれていることを期待したからだ。事件が報道された当時、世論の中に、確かに「自分でノコノコついて行ったくせに訴えるなんて、とんだ勘違い女だ」という風潮があったのを覚えている。だから、それに対する強烈なカウンターを期待していた。作者の主張の代弁者のような登場人物が颯爽と現れて、被告の女性を誹謗中傷する人間たちに人権とはなんぞやという話を説いて聞かせる——とまでは思わなかったけれど、とにかく、そもそも題材からして、フェミニズム的主義主張が第一にやってくる作品になるだろうと思っていた。

 けれど、本を開いて最初に読み始めた時、私が最初に抱いたのは、作者のジェンダー観への共感でもなく、フェミニズム的主張への賛同でもなく「姫野カオルコ性格悪っ!」という感想だった。これは褒め言葉です。

 本作の中には、沢山の「己の感性に無自覚なひとびと」が出てくる。たとえば主人公の美咲は、ごく善良でのんびりとした、けれど決して教養豊かとはいえない両親のもとで育った、自分の善良さと無知に無自覚な女性だ。反対に東大生のつばさは、高学歴で高所得の両親のもと育ち、自らの優秀さを疑ったこともなく、己の境遇の幸福さと肥大化した自意識に無自覚な男性だ。

 それがよいことにしろ悪いことにしろ「自分に対して無自覚」な人間は沢山いる。私自身、物心ついた時からずっと「自覚的でありたい」と思い続けていて、それでも時々それが上手くいかないことがあるから、彼らの「無自覚さ」を執拗に、残酷なまでに克明に描き出す冷徹さに衝撃を受けた。

 登場人物の誰もが自らに対して無自覚で、姫野カオルコの視点である地の文は、彼らの無自覚さを、何度も何度も、それこそ「無自覚な人」でも分かるように丁寧に、執拗に解説する。そのひんやりとした視線に同調しつつも、心のどこかで、自分にも彼らと同じような無自覚さがあるのではないか、仮に自分の振る舞いをどこかで姫野カオルコが見ていたら、この「地の文」にはどんな風に解説されるのだろう、と思って、急に恥ずかしくなる。そんな残酷さが、この小説にはあった。

 人は結局、自分以外の誰かの視点は持ち得ない。だから簡単に誰かを「馬鹿だ」と非難したり、反対に手放しで「あの人はすごい」と称賛してしまったりする。平たく言ってしまえば「人間関係における、あるある」なのだけれど、その「あるある」を後に起こる事件と絡めて、色々な意味で「痛々しく」描ききる手腕には壮絶なものがある。普段からこういう風に冷たい目で他人のことを見ていなければ、ここまで生々しくは描けない。だから「性格悪っ!」と思ったのだ。

 ジェンダーフェミニズムの話を期待して読んだだけに、これは私にとって衝撃的だった。これはジェンダーの小説である前に、人の自意識の小説だと思う。

 ただ、ひとつだけ気になる点があったとすれば、それは作品の中で何度も繰り返される「東大生」という生き物に対する画一化だ。ひとくちに東大生といっても、いろんな人がいる。あいにく私の周囲に沢山の「東大生」のサンプルが存在するわけではないが、東大生だって当たり前に人間なのだし、そのくらいはわかる。これだけの切れ味であれだけの小説を書けたのだから、姫野カオルコもそれはわかっているはずだ。

 にも関わらず、本作に登場する「東大生」および「世間一般的に言われる『頭のいい人』への描写は、「自意識」についてのそれと比較すると、余りにも雑で、もっと言えば、偏見に満ちているように思える。

『彼女は〜』に登場する東大生は、そのほとんどが「自分の境遇や在り方に何の疑問も抱かずに、受験戦争というシステムに適合して生きてきた、ある意味では優秀だが、情緒はほとんど発達していない人間」として描かれる。唯一の例外は主人公つばさの兄だが、彼はこの作品が示すところの「東大生ルート」から自ら外れる道を選ぶので、厳密には「姫野カオルコ的東大生」とは言えないだろう。

 ここで言う「東大生」とは、一定以上裕福な家に育ち、子供の頃から優秀で、受験のシステムに適応できるだけの「単純さ」と「無垢さ」を持ったまますくすくと育ち、その後はやはり「優秀な」人間として、誰もが羨ましがるような職に就く人間を指す。

 つばさの兄は、司法試験を諦め、祖父母の実家である北海道で教鞭を執る道を選んだことで、親が用意した「東大ルート」から外れた。この進路をどう思うかは人による(と、姫野カオルコも書いている)が、少なくともつばさの家庭にとっては、それはドロップアウトだった。つまり、つばさの兄は「画一化された有能人間製造機」から逃げ出した人間として描かれているのである。

 そして、その道を選び取った兄の心情は「無自覚」を貫いてきたつばさの視点でしか描かれない。つまり、そういう兄を、つばさは「馬鹿だなこいつ」と冷めた目で見ているのだ。勿論、その事実自体が、翻ってつばさの無自覚さを強調する材料として描かれてはいる。「優秀な」つばさは、「優秀でなくなった」兄が理解できない、理解しようとするだけの情緒もない、ということが、批判的な視線で描かれている。

 だが、それだけだ。たとえばつばさの周囲の東大生で、つばさたちと同じように「優秀な」ラインに乗っかってここまで来て、そのまま、優秀なままに駆け抜けていく学生の中に、つばさの兄のような人間はいない。大抵はつばさに理解できないような言動をとって「ドロップアウト」していってしまう。そこに、つばさたち「優秀な東大生」が見下せる要素が存在するキャラクターとして描かれる。

 勿論、そこには、主人公であるつばさの友人関係が、東大の中でもごく狭い理系の一部に限定されているという事情も絡むだろう。理系のごく一部の、似たような人間とつるんでいるわけだから、皆つばさと似たような思考回路をしている。それは当たり前だ。

 加えて、ただでさえ「美咲」と「つばさ」という、境遇も感性も異なる二人が主人公なのだ。彼らを取り巻く人間関係も描写しなければならないのに、更に「東大生の例外パターン」についても丁寧に取り扱おうとすると話が散らかってしまうであろうということはよくわかる。……けれど、それにしたって、一応「つばさや、彼の友人のような東大生ばかりではない」という但書は、もう少し丁寧につけてあげてもよかったのではないかと思う。

 これが、つばさと美咲の心情にばかり焦点を当てた小説であれば印象は違っただろう。しかし、つばさや美咲以外の人間にもそこそこスポットライトが当たり、更に彼らの心情や「無自覚さ」を、何度も何度も丁寧に、残酷なまでに描写するのであれば、同じくらいの丁寧さで「そうでない東大生」のサンプルを取り上げてもよかったのではないかと思う。たとえば、つばさたちと同じような「優秀ライン」に乗っかって、つばさの兄のようなドロップアウトもせず「優秀ライン」のまま世に出ていきながらも、その実胸の内では葛藤を抱えている「東大生」というような。

 つばさたち「無自覚な東大生」の心情描写が丁寧であるがゆえに抱いた感想だ。

『彼女は頭が悪いから』は、東大の購買で平積みになったらしい。手を伸ばした理由も読んだ感想も人それぞれだろう。当たり前だ。東大生も当たり前に人間だからだ。

 中には、作中に描かれた「東大生」の在り方を見て、もやっと感じた現役学生もいたのではないかと思う。きちんと姫野カオルコの小説を読み込めばフォローがあることは理解できるのだが、それにしたって「嫌な東大生」と「いい東大生」の描写の丁寧さに差がありすぎる。

 もしかしたら尺やストーリーラインの整理の都合上削られてしまったのかもしれないけれど、「悪意」の解像度が高すぎたが故に、「善意」についても、もう少し解像度を上げてほしかったな、と、素人目線ながらそんな感想を抱いた小説だった。