東京に帰ってきたこと

 東京に帰ってきた。以前のエントリで書いたように実家生活ではどこか息の詰まる思いがあったので、無事自分の家に帰ってくることができて安心した——かと思いきや、そうでもない。

 郵便受けに、留守にしていた間に届いた請求書が溜まっている。カードの支払のことや、ガスを止めますといった連絡だ。それらは勿論、私が実家に帰っている間に投函され、実家でご飯を食べたりお風呂に入ったりしている間にも変わらずそこにあった。別に、私が家に帰ってきたから降って湧いたわけではない。これが現実だ、と思い知らされる。

 母はどうやら、私が彼女に遠慮して居心地の悪い思いをしていることを感づいているらしかった。空港まで送ってもらう途中、何度も「遠慮しないで、お金のことだけは、必要な時はきちんと言って。貯金はあるから、大丈夫だから」と言われた。けれど「お金があるから、大丈夫だから」なんだというのだろう。結局のところ、私は社会人生活たったの3年目にして会社を休職し、実家に金銭的にも肉体的にもお世話になっているわけで、こんなものは全然「自立」ではない。小さな頃からずっと「大人になったら自分ひとりで生きていけるようになるんだ」と思い描いていたものとは全然違う。

 母は何も言わない。東京に帰ると言った時も反対せずに送り出してくれた。私はとても幸せものなのだと思う。その幸福に早く報いなければと思う今日このごろ。

算数ドリルとゼロのこと

 先日、母と雑談をしていて、何気なく「あなたは昔から本当に算数が嫌いだったわね。どうしてかしら」と聞かれた。確かに私は、小学校低学年の頃から算数が苦手だった。そもそも計算が嫌いだったのだ。中学に上がってからもそれは同じで、高校受験の数学にはかなり苦労した。高校は単位制だったので数Ⅲは選択せず、大学受験も、試験科目に数学のない私立文系を選んだ。根っからの「算数嫌い」である。

 母に聞かれた時は曖昧に濁したけれど、理由ははっきりしていた。くもんの算数ドリルだ。最初に言っておくけれど、くもんを批判する意図は一切ない。算数が嫌いになったきっかけは別にあって、その時にたまたまやっていたのがくもんの算数ドリルだった、というそれだけの話だ。

 我が家は教育熱心だったので、幼稚園に入る前には既に読み書きと算数のドリルを買い与えられ、毎日規定枚数をこなすことが定められていた(幼稚園は年中さんから入ったので、恐らくその時に周りの子供達に遅れを取らないようにという配慮もあったのかもしれない)。読み書き計算のドリルを終えると、ご褒美に一枚迷路のドリルを貰うことができた。他のドリルは苦痛だったけれど、迷路は楽しかったので、それを唯一の楽しみにして頑張っていた。

 私の母は、私を産んですぐ仕事に復帰した。本格的に仕事をするようになったのは、勿論私が幼稚園に入ってからのことだが、それ以前にも時折、どうしても外せない仕事が入り、家を空けることがあった。近場に親戚はいないので、そういう時は父が私の面倒を見ることになる。

 当時の私は、父をとても恐れていた。人生の中で一番古い記憶は、母の職場の近くで、父に抱かれて待っていた時のものだ。私はなぜか泣いていて(お腹が空いたのかおむつが濡れたのか、それとも単に母が近くにいないせいだったのかは覚えていない)父は私を泣き止ませるために、私の頭を叩いていた。痛いのでもっと泣くと、更に叩かれた。「お前が泣き止むまで殴り続けるぞ」と父は言ったが、泣き止むことができなかった。すると父は私を小脇に抱えるようにして、今度は尻を叩いた。これは長く叩くことになりそうだと気がついて、流石に頭はやめようと思ったのだろう。「好きなだけ泣け」と言われ、それでようやく涙が引いた。母の知人が心配して様子を見に来てくれたのが恥ずかしかった。

 そういう人なので、一緒に留守番をする日は私にとって地獄だった。私がにこにこしていないと父は怒るので、絶対に泣いたり不機嫌になったりしないようにする必要があった。その日は一日中ふたりで留守番だったので、私はとても緊張していた。慎重に振る舞い、それはその日の夜までは上手く行っていた。

 夕食を食べて、ドリルの時間になった。読み書きは特に問題ない。寧ろ得意分野だった。また、諸事情あって父も読み書きが苦手だったので、怒られることはないとわかっていた。寧ろ褒めてもらえた。けれど、算数の段階になって、困ったことが起きた。

 ドリルの中に、初めて「ゼロ」が出てきたのだ。もしかすると、ゼロに関する説明はどこかに書いてあったかもしれない。けれど、そもそもが教科書ではなくドリルである。取り敢えず例題の見よう見まねで解いてはみたが、私は「ゼロ」がよくわからなかった。確かにそこに存在している数字なのに、「ない」とはどういうことなのか。果たしてこのゼロというものは数字なのか、数字じゃないのか。数えていいのか、駄目なのか。よくわからなくなって、結果、ゼロをイチとカウントした。

 くもんの「ゼロデビュー」のドリルページは、全てが「n-0は?」という問題で成り立っていた。ゼロがわからなくなった私は、それらを全て「n-1」として計算した。

 ドリルを終えて、父にまるつけを頼んだ。この瞬間は、相手が父だろうと母だろうといつもドキドキする。ボールペンがくるりくるりと動いている間は良いのだが、一瞬手が止まって、眉を顰めて、ぴゅっと音がした時には肝が冷えた。ぴゅっ、が何度も続くと冷や汗が止まらなかった。この日は当然、ボールペンがくるりと動くのを見ることはできなかった。

 答案にぺけをつける父の顔がどんどん険しくなっていって、私は思わず口を開いた。「あのね、ゼロがわからなくて……」拳で遮られた。半分くらいまで採点をしたドリルを見ながら、父は「これから間違えた数だけ殴る」と言った。私はその時既に、自分が全ての問題を間違えていることを理解していた。ゼロは数えてはいけなかったのだ、とわかったからだ。ぴゅっとボールペンが走る。一度頭を殴られる。またボールペンが走る。また頭を殴られる。今はもう正しい回答がわかっているのだけれど、既に答案用紙に書いてしまっているので訂正できなかった。

 結局私は零点で、投げつけられたドリルのページを見ながら「あ、ゼロってこういうことか」と思っていた。確かに殴られた頭は痛かったが、これで今日のドリルは終わりだ。ここから先父は怒ったままだろうけど、あとは極力大人しく、いい子にして、お母さんが帰ってくるのを待てばいい、と思っていた。けれど、父はなぜか今日はもう終わったはずのドリルをまた開いて、そこから1枚、新しいページをちぎりとった。

「もう1枚やれ。間違えた数だけ叩く。満点を取るまでやる」

 ゼロの概念は理解したから大丈夫だ、と思ったが、私はそんなに優秀ではなかった。小さな計算ミスが、1枚にひとつはあった。くるりくるりとボールペンが動く音を聞きながら祈って、ぴゅっ、と動くと父が頭を殴りやすいように体を少しだけ近づけた。課された条件をなかなかクリアできないでいると、家の電話が鳴った。母からだった。受話器から漏れ聞こえる言葉をなんとか聞き取ろうと耳をそばだてた。

「あの子はいい子にしてたかしら?」と母が聞いた。父は怒気を孕んだ、曖昧な言葉で答える。そのニュアンスを不思議に思ったのだろう、母が「ドリルはちゃんとやったの?」と聞いた。父は「ああ、ある! 零点の答案と一緒にな!」と怒鳴った。母が電話の向こうで「あらあら」と困った声を発しているのを聞いた。

 母が家に帰ってきた時には、流石に私は全問正解を成功させていた。机の上に散らばった沢山のドリルと、私が鼻をかんだティッシュの山を見て母は驚き、父は「お前のせいなんだからお前が自分でなぜ怒られたのか説明しろ」と言った。そこで私は「自分が馬鹿だった為に答案を全て間違えてしまったが、やり直すチャンスを貰ったので、できるまで挑戦した」と伝えた。母は、まあそうなのね、でもちゃんとやって偉かったわね、と言った。我慢できなくてまた少し泣いたが、今度は母がいたので、父は私を殴らなかった。

 恐らくは、この出来事を覚えているのは私だけだろう。父も母も、既に忘れてしまっているに違いない。なにしろとても幼い頃の記憶なので、知らず知らずのうちに記憶を誇張してしまっている可能性もある。けれども、その事件がきっかけで算数が嫌いになったことは間違いない。

 私にとってはとても大きな事件だったのだけれど、今まで誰に話すこともできずにいた。ゼロが分からなくて殴られたせいで算数が嫌いになったなんて、とても恥ずかしくて言えないからだ。「零点の答案と一緒にな!」と叫ばれたことも気恥ずかしい。小さな頃のエピソードはたいていそんな風に恥ずかしいことばかりなので、誰に話すことも、いつも躊躇われていた。のだけれど、今日ふと思い出す機会があって、幸いにも書き留める場所があったので、記録として書いておくことにする。

『スタンド・バイ・ミー』のこと

  映画好きの端くれを自称しているので、様々な家庭事情を背景に持つ少年少女のささやかな冒険譚を、「スタンド・バイ・ミー的な」と表現することがある。これは便利な表現だ。『スタンド・バイ・ミー』を観たことがある人は、その一言で作品の雰囲気や繊細さ、危うさを感じ取ることができるし、観たことがない人もなんとなく「子どもたちが小さな冒険をする話なんだなあ」と想像できると思う。この作品は、そのくらい有名で「言わずと知れた名作」だ。

 そんな『スタンド・バイ・ミー』を、かなり久々に見返した。恥ずかしながら、今回見返すまで、私は『スタンド・バイ・ミー』の内容をほとんど覚えていなかった。あれだけ訳知り顔で『IT』を「ホラー版スタンド・バイ・ミーだよ」なんて人に紹介していたのに。やはり私の中でも『スタンド・バイ・ミー』は「スタンド・バイ・ミー的なもの」を指し示すための一つの記号と化してしまっていたのだった。

 偶然TSUTAYAに行く機会があって、そこの「名作コーナー」の棚に並んでいるのを見た時に「そういえば、話の中身をきちんと覚えていないな」と思って手に取った。覚えているのは4人の少年たちが並んで線路を歩いていくシーンと、彼らの目的が「死体を見に行くこと」だったことだけだ。

 家に帰ってDVDプレイヤーを起動した。DVDを観るのなんて久々だったから、何度も「入力切替」を押してプレイヤーが繋がっている場所を探した。約90分間テレビの前で大人しくしてわかったことは、やはり『スタンド・バイ・ミー』は「4人の少年たちが並んで線路を歩いて死体を見に行く話」だ、ということだった。

 あらすじを紹介しろと言われれば、そうとしか言えない。起承転結に書き起こして誰かに聞かせたところで「うわー面白そう! 観てみたい!」とは思わないだろう。思えば、私が最初にこの映画を観た時も、様々な人に「名作だから」「これを観ていなければ到底映画好きなどとは名乗り難いから」と言われたからだったような気がする。

 要するに、あらすじが殆ど存在しない。『マッド・マックス 〜怒りのデス・ロード〜』と同じだ。あれも砂漠を行って帰ってくるだけの映画だった。

 多分、『スタンド・バイ・ミー』はストーリーを観る映画ではないのだ。彼らの会話から、危うい友情と、それが、このひと夏が終われば崩れてしまうものだということを肌で感じとる。それは最後まで言語化されることは無いけれど、やはり主人公たちも肌で感じている。

 私にも「スタンド・バイ・ミー的な」時を過ごした友人が何人かいた。親に嘘をついて一緒にちょっと悪いことをしたり、その時しかできないばかみたいなことをした。彼らの大半はやっぱり成長と共に疎遠になってしまった。けれど、そのうちの一人はいまでもSNSで繋がっていて、こまめに連絡を取り合っている、どころか、今日の夕飯が何だったか、職場でどんな嫌なことがあったかまで知ることができる。疎遠になってしまった他の友人たちにしても、その気になれば似たような精度で情報を得ることができる。

 そういうことを考えると「時代が変わったなあ」と思う。「スタンド・バイ・ミー的な」あの頃は、きっともうどこにも存在しないのではないだろうか。その事実を良いことだと思うか、情緒が失われたと懐古するかは別として。

 ともあれ、これからは胸を張って「スタンド・バイ・ミー的」という言葉を使っていこうと思う。いつかまた「確か4人の少年たちが並んで線路を歩いて死体を見に行く話だったような気がするけど、詳しく覚えてないなあ」と思う日がくるまでは。

「まぜて」と言えたあの頃のこと

 休職して暇なので、今まで以上にゲームやチャットに精を出している。

 自分で探すようになって気がついたのだけれど、世の中には、案外人との繋がりに飢えている人が沢山いる。Twitterでは多くの人が「#hogehogeさんと繋がりたい」というタグを使って仲間を探しているし、掲示板を見に行けば、毎日のように誰かがLINEのIDを交換してくれる相手を募っている。今どきPC専用サイトのチャットルームなんて誰が使うんだろうと不思議になるくらいなのに、チャットルーム一覧を見ると、必ずどこかひとつには入室者がいる。みんな寂しいんだなあ、と思う。

 思えば、毎日のように見知らぬ誰かと会話をするというのは久しぶりだ。小学生の頃、インターネットの面白さに目覚めて手当たり次第に友達を作っていたあの頃以来ではないだろうか。当時はチャット文化の全盛期で、猫も杓子も、「○○のお部屋」みたいな素朴な個人サイトもチャット機能をつけていた。勿論大規模なサービスも豊富にあった。私のお気に入りはYahoo!チャットやもなちゃと、綺麗なドット絵の世界で自分の部屋を飾りつつお喋りを楽しめるhabboホテルあたりだっただろうか。以前記事を書いたリヴリーも、そういえば可愛い見た目で楽しめるチャットとして優秀だった。

 

yorunonikki.hatenablog.jp

 

 今ではすっかり、人との交流の場はTwitterに限られている。それも新しく友人を作りに行くということは滅多になく、大抵は同人活動をするうちに自然と作品をよく見かけるようになってフォローし合った人だとか、その人の友だちだとかになってくる。

 Twitterから始まる交流は、非常に段階的でゆったりとしている。

 まず、相手のプロフィールを見てフォローを送り「あなたに興味があります」と示す。相手がフォローを返してくれたら両思いだ。丁寧な人は、この時点で挨拶をくれたりする。私はもっと緩くTwitterを使っているので、相互フォロー時点では特に何もしない。挨拶をされたら、挨拶を返す程度だ。

 次に、タイムラインに流れてくるつぶやきで相手の情報を知る。興味のあるものやこと、文字通り「今何してる?」か、その人の主義主張、エトセトラ。それは単なる「呟き」なので、こちらは反応してもしなくてもいい。向こうも、特定の誰かに語りかけるつもりでは喋っていない。ただ、興味がある話題、自分にも語れそうな話題が「流れて」きた時に反応を示せばよい。既に話題は固定されているので、話すに困るようなことはない。お互いに惹かれ合えばそのまま仲良くなれるし、ちょっと話して「噛み合わないな」と思っても、どうせお互いの「つぶやき」の延長線上なのだから無理をして会話を続ける必要もない。とても気楽なコミュニケーションツールだ。

 SNSに疎いひとから「Twitterの何がいいの?」と聞かれた時、だから私は、上述したようなことを喋って「要するに『緩く誰かと繋がっていられる』という魅力があるんですよ」という言葉で〆る。Twitterは、相手に初めから密な関係を強要しない。大人数でわちゃわちゃしている間にいつの間にか仲の良い相手ができている。大学のサークルか何かで、活動に参加したりメンバーと遊びに行ったりするうち、馬の合う相手ができて親友や恋人になる……というイメージだ。

 けれど、いわゆる「野良の」チャットや、掲示板の「友達募集」は違う。話題も提示されていなければ相手のプロフィールもわからない状態で、いきなり「おしゃべり」が始まる。ゲーム内チャットなら「このゲームのこと」という大前提の共通言語があるからまだいいけれど、本当に只の「たのしいチャットルーム」みたいな場だと悲惨だ。だって、何から話せばいいか分からない。相手が何が好きで何が嫌いか、どんなことに興味があるかわからないのだ。Twitterが大学のサークルなら、こちらは最早お見合いでだ。友達募集なら最低限度のプロフィールくらいはあるじゃん、と思うかも知れないが、これもあってないようなものである。

 たとえば「映画好きです」と自称している人が「金曜ロードショーは毎週見てるよ」なのか「ミニシアターの年パスを所持していて新作の上映には必ず足を運ぶ」のか、それとも「ヒーロー映画の大ファンで、原作のコミックも読んでいる」のかわからない。それに反応する方も同じで、映画好きと聞いて『揺れる人魚』の話題を引っ提げていったら、向こうは『アベンジャーズ』が人類の基礎教養だと思っていた、みたいな事故が、全然起きうる。

 Twitterならそうはならない。プロフィールに「映画好き」としか記載していなくても、タイムラインを見れば、その人のつぶやきで「フランス映画好きだな」とか「西部劇ファンだな」とか「さてはゾンビ映画しか観てないな」とか推し量ることができる。その人のつぶやきに興味があれば、こちらに提供できる話題が無くても一方的に見守っていればいいし、興味がなければそっとフォローを外してしいまえばいい。

 けれど、チャットではそれができない。唐突に、お題すら存在しない状態で開始されるコミュニケーション。場に複数人いる時は気が楽な方で、これが一対一になると、響く話題を探してお互いに浅く広く、当たり障りのない世間話ばかりをすることになる。

 そういう七面倒臭いことを回避するにはざっくばらんに相手の興味のある対象について聞いてしまった方が楽だが、「何が好きですか?」なんてざっくりとした聞き方をしては困惑させるばかりだ。

 勿論、奇跡的に噛み合いがよく、初対面なのに数時間後には数年前からの友人同士のように話せていることもある。けれど、大抵の場合はお互いに腹の中を探り合ううちに終わってしまう、悲しい「お見合い」だ。

 そういうことを考えるにつけ、誰にでも気軽に「まぜて」と言えていたあの頃は何だったのだろう、と思い出す。初めて入ったチャットルームで、チャットの常連さんたちが仲良さそうに会話をしていても、臆することなく「こんにちはー」と入っていけた。会話の引き出しは今のほうが多いはずなのに、少ない引き出しを上手く使って、人との距離をさっと縮めていた。確かに深い関係になることは珍しかったけれど、たとえば、他の常連さんたちが一人二人と「落ちて」行っても、残った人に「じゃあ私も……」と言われず、そのまま喋っていられるような気安さがあった。

 相手の素性も、年齢も性別も一切知らないままに「まぜて」と言うことのできたあの頃の私は、今と何が違ったのだろう。十余年で、一体何が変わったのだろう。

 もしかするとこれが「歳をとる」ということなのだろうかと思いつつ、いつか十年前のように「まぜて」と言える日を夢見て、今日も小さなチャットルームで「はじめまして」を繰り返している。

「善良だけどしんどい人」のこと

 世の中には、案外「善良な人」が多い。社会に出てそれを学んだ。学生の頃は付き合う相手を選ぶことができたから、基本的には「面白い人」とばかり一緒に過ごしていた。サークル活動だの授業だので一緒になる人の中には苦手だったり嫌いなタイプもいるけれど、四六時中顔を合わせているわけではないので、そこまで気にならない。食べ放題のバイキングで好きなものだけお皿に乗せるみたいに、自分の好きな相手とだけ一緒にいられる。全ての学生がそうだとは思わない。けれど、私はごくたまたま、そういう「ぬるま湯」の中で22年間過ごしてきた。

 ところが、社会に出るとそうもいかない。最初に一緒に仕事をすることになったメンターは「善良な人」とは言い難かった。それでも、周囲の人たちが気にかけ、助けてくれた。父は私に、口を酸っぱくして「他人は全て敵と思え」と教えてきたけれど、短い社会人経験の中で、私は「そんなことないじゃん」と思った。人は、別に利害関係が無くたって困っている人に手を差し伸べることができる。一度や二度の失敗なら笑って許してくれる。誠意を持って接すれば、同じように誠意で返してくれる。

 けれど、じゃあその「善良な人」が皆「いい人」かというと、そうは限らない。それもまた、短い社会人生活の中で学んだことだ。

 職場での一番のストレスは、仕事の中での人間関係だった。別に、誰かに意地悪されていたわけではない。パワハラもセクハラも無かったし、皆一緒にご飯に行けば楽しく笑い合えるような人たちだった。私よりもつらい思いをしながら、それでも毎日会社に行っている人は沢山いると思う。少なくとも私は、明確な敵意に晒されたことなんて、一度もないのだ。

 それでもしんどかった。しんどいと思うこともしんどかった。完璧な善意で以て、私に沢山のアドバイスをくれる人がいた。よりよい仕事をするのだという熱意で以て、私の指示に反対する人がいた。その反対を飲み込むには、また別の「善良な人」を納得させる必要があり、その人もまた、善意や熱意で「そういうわけにはいかない」と拒絶を示した。でも、誰も私を責めてはいなかった。私が勝手にしんどくなって、勝手に彼らを恐れたのだ。その事実が何よりしんどかった。

 いまこうして職場を離れて一番最初に考えることは、「彼らにどう思われているのだろう」という、その一点だ。別に虐められていたわけでもない。会社では図太くてちょっと適当で口の悪いキャラだったから、何かを気に病んでいた素振りはほとんどなかった(と思いたい)。「これだけの善意で接していたのに、いったいあの人は何が不満だったんだろう」と、善良な彼らは思っているのではないだろうか。それとも、その善良さで以て「きっと何か大変だったのね」と曖昧に流してくれているだろうか。あるいは、私のことなんてすっかり忘れてくれているだろうか。最後が一番気楽だけれど、そうなると、再び顔を見せる時が恐ろしくなる。彼らは善良だから、きっと突然戻ってきた私に対して不信感を抱くようなことはないだろうけれども。

 世の中には善良な人がたくさんいる。でも、我儘な私は「いっそのこと彼らが意地悪な人であればよかったのになあ」と思ってしまう。そうすれば少なくとも、堂々と「しんどい」と思えた。

 相変わらず贅沢なことを言っている自覚がある。今この瞬間も「善良ではない人」によって傷つけられている人がたくさんいるのに。善良でない私は、相変わらず、今日もそんな罰当たりな不平を漏らしている。皆さん、ごめんなさい。

『儚い羊たちの祝宴』のこと

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

 

 米澤穂信儚い羊たちの祝宴』を読んだ。ミステリはそこそこ好きだったのだけれど「ミステリ好き」を自称するほどでもない私は、恥ずかしながら米澤穂信という名前をこの時初めてしっかり認識した(今までは「なんとなく見たことある名前かも」くらいで、彼がどんな作家だか全然知らなかったのだ。『氷菓』の作者だというのも今回初めて知った)。

 本作は、ミステリ風の短編集だ。あえて「ミステリ」と書かなかったのは、後述するけれど、私はここに、ミステリというよりもアンチミステリの息遣いを感じ取ったからだ。勿論「ミステリはまあまあ好きだけどミステリ好きを自称するほどでもない」人間の、薄ぼんやりとした所感に過ぎないけれど。

 尚、この感想文にはいわゆるネタバレを含むので、もしもそういうのが苦手な方がここに辿り着いてしまっていたら、そっと見なかったことにしていただくのが良いかと思う。そういう人に対して私が言えるのは「面白かったので、取り敢えず読んでください」の一言だけだ。

 

『儚い〜』に収録されている短編は5作。そのいずれもが、とある女子大学の読書サークル「バベルの会」の関係者の独白、もしくは手記形式である。関係者と一口に言っても間柄は様々で、本人が会員のこともあれば、以前の雇い主の娘が所属していた、程度の距離感のこともある。だが、とにかく全ての話に共通して「バベルの会」が出てくる。

 収録作品のひとつひとつについては、ここでは詳細を省く。ただ一つ言えるのは、恐らくこれは、「ミステリ」という言葉で一般的に想像されるような「殺人のトリックを考えたり、犯人を予想しながら読み進める」といったたぐいのものではない、ということだ。読み物としては当然面白いけれど、ページを戻って確認しなければならないような伏線や、思わず膝を打つような種明かしは存在しない。事件の当事者は皆、一種の狂気を滲ませながらも淡々と独白を行うし、颯爽と現れた名探偵が事件を解き明かすこともない。全ての事件が実は背後で繋がっていて、真の黒幕あるいは偶然の一致により必然的に引き起こされたのだった——というオチでもない。全ての事件はあくまで独立している。

 それぞれの事件の当事者を繋ぐ唯一の共通点は「バベルの会」の関係者だということだ。では「バベルの会」とは何か。その正体は最後の短編『儚い羊たちの晩餐』で明かされる。……しかし、それもまた、実は金持ちのミステリ好きが集まって殺人ゲームを楽しむ禁断の倶楽部でした、などということはない。一時は「バベルの会」に所属しながらも除名された『晩餐』の主人公に向かって、「バベルの会」会長は、サークルの存在意義を「虚構と現実の境目を曖昧にしてしまう夢想家が身を寄せ合うためのものだ」と語る。夢想家の彼らにとって、「晩餐」の主人公は余りに現実主義者だった。根っからの現実主義者は、閉ざされた避暑地に奇書を持ち寄って囁き交わす読書会などに居場所を求める必要などないと、こういう話なのである。

「バベルの会」の、そのささやかな存在意義を知った時、私の脳裏に浮かんだのは日本四大奇書の一角をそれぞれに担う『虚無への供物』と『匣の中の失楽』だった。双方共に、アンチミステリと称されることの多い作品だ。(というか、この二作は本来並行して語るべき作品ではない。『匣の中の失楽』は明らかに『虚無への供物』をオマージュしているからだ)

 上述した二作品には、明らかな共通点がある。それは、とある事件を解決しようと推理に乗り出す探偵役が、皆生粋のミステリ好きの「素人」だ、という点である。『虚無への供物』の登場人物は、その殆どがバー「アラビク」の常連であり、年齢も立場も異なるものの、夜毎自分たちの愛読書の話に花を咲かせている。『匣の中の失楽』はもっと直接的で、探偵小説を愛読する若者たちが集まる例会が舞台だ(まあ、単にミステリ好きが集まって推理する、という舞台設定それ自体は、別に珍しいものでもないけれど)。

『虚無への供物』の登場人物がミステリ好きの素人たちであることには、文字通り既存のミステリへのアンチテーゼとなる、重要な意味がある。『匣の中の失楽』についても、『虚無への供物』ほどではないものの、虚構と現実がごたまぜになる、という酩酊感を作り出す上で例会は重要な役割を果たしている。彼らは皆「あの作品にこんなトリックがある」とか「あの作家がこんなことを言っていた」とか言って、今ここで起きている事件にミステリの文脈を持ち込み、上書きし、結果として事件を必要以上に複雑怪奇にしてしまう。

 そう、『虚無への供物』も『匣の中の失楽』も「虚構と現実の境目を曖昧にしてしまう夢想家」たちの物語なのだ。私が『儚い羊たちの祝宴』をアンチミステリだと感じ取った理由は、恐らくここにある。

 本来「本格ミステリ」と呼ばれるものは、どこまでも現実の物語である必要がある。長々と引っ張った上に明かされるトリックが殆ど偶然の産物だったり、殺人の動機がくだらないことだったり、というのではブーイングものだ。

 けれど、ミステリは一枚岩ではない。ポーや乱歩(これも本来並行して語るべきではない名前だけれど)をはじめとした「狂気や虚構と隣り合わせ」のミステリは確かに存在し、そしてそれらは、いわゆる「本格ミステリ」よりも更に人を狂わせる。

 ミステリは本来現実的な存在だが、その熱狂者は大抵が夢想家なのだ。……そもそも夢想家でなければ何かに熱狂することなどないかもしれないが。

 恐らく『儚い羊たちの祝宴』に登場する「バベルの会」の会員たちは、『虚無への供物』の「アラビク」常連客や『匣の中の失楽』の例会のメンバーと同じだ。奇書に触れ狂気を育み、虚構と現実の境目をどこか曖昧にしたまま生きる人々だ。

 けれど、彼らには前者二作品の登場人物たちとの決定的な違いがある。

 明らかに「格落ち」なのだ。これは、作品の質がどうとか、そういう批判的な意味合いではない。

「バベルの会」の会員たちは、皆ポーや乱歩に耽溺し、現実とミステリとを重ね合わせ、その境界線がどこか曖昧になったまま生きている。それは『虚無への供物』や『匣の中の失楽』と同様だ。……だが、彼らはあくまで「羊」なのである。現実と幻想とを取り違えたまま、その境界の上で危うげに揺れたまま、けれどそこを踏み違える事は決してない。彼女たちは事件の引き金を引かないし、殺人事件の推理に嬉々として乗り出したりもしないのである。

 厳密に言えば、一人だけ例外がいる。第一の短編『身内に不幸がありまして』に登場するお嬢様、吹子は、バベルの会の会員であり、そして殺人者だ。だが、彼女はバベルの会の泊りがけの読書会には参加しない。故に「羊」であることから免れる。

 第五の短編『儚い羊たちの晩餐』は、バベルの会から追い出された現実主義者であるところの主人公鞠絵が、その生活の中で徐々に心を狂わせ、遂には泊りがけで読書会を行っていた会員たちを、家付きの料理人に皆殺しにさせる至る物語である。つまり作中における「羊」は犠牲となった会員たちであり、「晩餐」というのは、彼女たちの肉を使って作られた料理のことだ。料理人に殺人を命じた主人公鞠絵は、その「料理」が大量の材料を必要とすることを知らず、知らず知らずのうちに虐殺を命じてしまったことに気がついて気を狂わせる。彼女は、最後まで現実側に足を着いた人間だった。故に彼女もまた「羊」ではない。

 羊は、元より弱い生き物だ。それに「儚い」が付く。犠牲となったバベルの会の会員が皆、虚構と現実の間に身を置きながら、けれどもどこまでも無害な生き物であったことが強調されている。

 冒頭『身内に不幸がありまして』の吹子と、ラストの『儚い羊たちの晩餐』の鞠絵以外は、バベルの会の会員は直接登場してこない。間に挟まった3つの事件の犯人は、それぞれ会員たちと面識のあった使用人だ。故に、彼らも「羊」ではない。

 つまり『儚い羊たちの祝宴』というのは、その全編を通して「儚い羊」が、より強い狂気を抱く者、あるいは徹底して現実に生きる者に殺されるに至る物語なのである。

 一方的に殺される「羊」を私達は知らない。彼女たちは事件の加害者ではないから独白をすることもないし、惨殺された時の風景については描写されていない。……ただ、恐らくは、無力に、震えながら逃げ惑ったのであろう、ということが想像される。

 彼女たちは虚構と現実をないまぜにしながらも、虚構で現実を上書きするような力を持たない。故に『虚無への供物』とも『匣の中の失楽』とも違う、彼らのようにはなりきれない、あくまで「儚い」羊なのだ。彼女たちの夢想は、毒にも薬にもなりはしないのである。

 避暑地のサンルームで次々とその命を奪われる、無垢ではないが無力な乙女たち。彼女たちの横顔はわからない。ただぼんやりとしたイメージがあるだけだ。私達に独白をするのは、皆「羊」になることを免れた者たちなのだから。

 そもそも『晩餐』の主人公鞠絵が料理人に彼女たちの殺人を命じたのは「バベルの会」を除名されたことが原因だった。そしてその理由は前述の通り「現実に足をつけている彼女は、羊たちにとって強すぎた」からである。逆に言えば、羊たちは弱すぎた。そして、その弱さ故に殺されるのだ。「まるでミステリのような」動機と方法で。

 読了した後に調べて知ったのだけれど、この短編集は「『そんな理由で殺すなよ』とツッコまれるような奇妙な動機のシリーズで揃え、オチは読めるが皆それを言うのを待っているという落語的なものを念頭に置いていた」という。そういうところがまた、非常にアンチミステリ的だと、素人目線ながらそんな感想を抱いた小説だった。

コーチャンフォーのこと

 実家に帰ると必ず立ち寄る「コーチャンフォー」という店がある。私は、基本的には北海道に存在するものは全て東京にも存在する(広大な大地と快適な人口密度の地下鉄以外)と思っているので、実家に帰った際にわざわざ買い物に行くことはまずない。ウィンドウショッピングをするなら絶対に東京のお店の方が楽しいし、何か目当ての品物があるのなら尚更だ。北海道のお店だと、そもそも店舗に存在しなくて、取り寄せには5日から1週間かかります、とか、そういうことがざらにあるからだ。

 ここまで書けば安易に想像がつくと思うけれど、私は根っからの東京至上主義者だ。都会を崇拝していると言ってもいい。「東京で消耗する」ことの何が悪い、と思い続けている(まあ、思い続けた結果、うつになったわけだけれど)。便利で、人が沢山いて、新しいものやことは、なんでも東京から始まる。東京は、全てにおいて札幌に勝っていると思う。

 ……が、自分の地元で、たったひとつでいいから東京暮らしに勝ることを絞り出しなさい、と言われたら、私はコーチャンフォーの存在を挙げる。これだけは間違いなく、北の大地が東京に誇れる唯一の商業施設だ。

 コーチャンフォーとは何か。すごくざっくり言うと「なんでも売ってる本屋さん」である。といっても、ヴィレッジヴァンガードのパクりではない。寧ろ方向性は真逆だ。

コーチャンフォー」というのは、正しく書くと"Coach & Four"で「四階建ての馬車」という意味だそうだ。「書籍」「文具」「音楽」「飲食・映像」の4つのジャンルを取り扱うことから、こういう名前がついたらしい(私もググって初めて知った)。

 つまり、北海道の広大な敷地を有効活用した建物の中に、本屋と、文房具(と雑貨)屋と、CDショップと、ミスタードーナツ(うちの近所の場合は)が入っているのだ。

 これは、最寄りの電車駅まで徒歩1時間半かかるド田舎に暮らす10代女子にとって、実質ディズニーランドだった。

 別に、似たような店が東京に無いわけではないだろう。お洒落な文具と本を取り扱う店なんてごまんとあるし、そういう店の地下にはたいてい、古き良き喫茶店が入っていたりする。だが、コーチャンフォーの強みは、その大きさだ。とにかく売り場面積が広大なのだ。それも、私の地元の店舗は平屋だったから、店に入った途端、眼前にダーッと平積みにされた本と、その後ろにどこまでも並んだ本棚が見える。ひとつひとつの書棚を見て回っていたら、多分まる1日かけても足りないだろうな、というのがひと目で直感できる。

 10代の頃、家と学校を除いて一番滞在時間の長かった場所はどこかと問われれば、恐らくはコーチャンフォーになるはずだ。そのくらい、私はこの巨大な商業施設にお世話になっていた。

 この書店を巡る際には、私の中で行動順序がある程度決まっていた。まず入り口手前の雑貨コーナーを見て、新しい季節フェア等が行われていないかチェックする。年末は手帳が置いてあったり、春には小さな雛人形が売られていたりするからだ。

 それが終わったら、本売り場にいって、まずは雑誌コーナーへ行く。ひとくちに雑誌といっても大量にあるので、見て回る列は事前に決める。その後は文庫が売り上げ順に平積みにされたコーナーへ。大抵は表紙の可愛い、いかにもエンタメですという感じの本が数冊は並んでいるから、その中から読み味の軽そうなものを選ぶ。たまにエンタメ小説に混じって表紙を若者向けに一新した古典文学の文庫本が売られているから、表紙が可愛ければそれも買う。なんだかんだで年頃の女子だったので、どうせ『恐るべき子供たち』を読むのなら、光文社や岩波のこういうの

恐るべき子供たち (光文社古典新訳文庫)

恐るべき子供たち (光文社古典新訳文庫)

 
恐るべき子供たち (岩波文庫)

恐るべき子供たち (岩波文庫)

 

  よりも、萩尾望都表紙の小学館版とか、お洒落な角川版

恐るべき子どもたち (小学館文庫)

恐るべき子どもたち (小学館文庫)

 
怖るべき子供たち (角川文庫 (コ2-1))

怖るべき子供たち (角川文庫 (コ2-1))

 

  の方がいい。絶対にいい。小畑健表紙の『人間失格』が集英社から出た時は「流石に媚びすぎだろ」と思わないでもなかったけれど、「見た目がよければ若い人間はホイホイ買うと思って馬鹿にしやがって」と思いながら、見事にその策略にハマっていた。

 とにかく、文庫本を見終わったら、ハードカバーのコーナーに移動して面白そうな本を物色し、メモしておいた。どうせ後で文庫版になるのだから、それを待った方が得だ。

 ただ、それでもたまに、「どうしても今読みたい」という本がある。そういう時は基本的に、母親にねだっていた。この楽園のような書店は家から車で20分程度のところにあり、バスや電車で目指すと1時間以上かかるので、私はいつも、ここに、母親に連れてきてもらっていたのだ。

 生まれてから高校2年の終わり頃になるまで、私の家は、お世辞にものびのびと生活できる空間だとは言いがたかった。父親がいたからだ。

 父は、私が小さな頃は厳格な人だった。躾と称して手を出すことも珍しくなかった。それが、私が小学校低学年だった頃に出ていって、数ヶ月もしないうちに、また帰ってきた。当初は私のことや母の生活態度を理由にして離婚しようとしていたのだが、本当は生活のストレスが原因で家を出たのではなく、会社の女の人とデキているのだとバレてしまったからだった。

 帰ってきた父を、母は受け入れた。それを見た私は、父と母を、両方少しずつ軽蔑した。父のことは嫌いになった。日常的に叩かれていた時は寧ろ気に入られようと一生懸命だったのに、怒鳴りながら家を出ていく後ろ姿と、玄関で涙ながらに許しを請うその薄い唇を見て、呆気なく嫌いになった。

 家にいる時の父はいつも不機嫌だった。暗い部屋でパソコンを眺め、キーボードをばちばちと叩き、気に入らないことがあると怒鳴った。私もそれなりに大きくなっていたから、もう暴力は振るわなかったが。

 帰ってきた父は、色々な妄想にとりつかれた。一番お気に入りだったのは陰謀論で、飛行機雲の写真を撮って、自分のブログにアップしていた(ということを、私は父の話から知り、会話の断片から得た情報で特定して以来、そのブログをずっとヲチっていた)。飛行機雲はアメリカ軍が天気を操作するために空気中に薬品を散布している証拠なのだそうで、わざわざそれを撮影するために購入したデジカメをいつも手放さず、世界に蠢く「陰謀」の断片が見えると、私にその重大さを話して聞かせた。適当に相槌を打ったり茶化したりすると怒鳴るので、私は父の話に驚き、感心し、世界を裏から操作する悪しき組織の存在に恐れ慄かなければならなかった。

 話が逸れてしまったけれど、そういうわけで、私も母も、家にいるのが苦痛でしかたなかったのだ。私は小学校の半ばくらいから遠くの学校に転校していたので、その送り迎えを口実に、母は毎日私をコーチャンフォーへ連れて行ってくれた。

 コーチャンフォーは私にとって、学校から家に帰る間に挟まる、痛みを和らげてくれるクッションのようなものだった。学校も大して好きではなかったから、辛いことと辛いことの間にちょこっとご褒美が入るような感覚だった。

 中学校に上がって仲の良い友人ができて、放課後は彼らの家や外で遊ぶようになっても、相変わらずコーチャンフォーは、私の聖域で、楽園だった。

 

 先日、やっぱりコーチャンフォーへ行った。実家に帰ってきたところですることもなく、日がな一日ごろごろしている私に「どこか行きたいところはないの? 連れて行ってあげるよ」と母が聞いたからだ。「コーチャンフォー」と即答した。

 店内に充満する本の匂いと、視界いっぱいに積まれた本を見て、ようやく「ああ、実家に帰ってきたな」という感じがした。学校より家より、コーチャンフォーは私にとっての「実家」だった。

 久々に訪れたコーチャンフォーは、CDコーナーの1/3ほどが削れていて、代わりに成城石井の輸入食品コーナーが入っていた。お洒落なスパイスや珍しいお酒、カロリーの馬鹿高いチョコレートなんかが売られていて、ちょっと感動してしまった。この夜子が生まれた時代はCDしか売られていなかった。

 余りに感動して、意味もなくハリボーのグミを買った。こんなもの、別にコーチャンフォーじゃなくたって手に入る。東京の私の家なら、徒歩数分でドンキに行けるし、そこには多分、コーチャンフォーのCD売り場の端っこよりもよほど沢山の種類のグミが並んでいるだろう。

 けれど、私はコーチャンフォーのグミがよかったのだ。私にとってコーチャンフォーのグミを買って食べることは、あの頃の、家と学校との間に挟まった、柔らかくて懐かしいしずくを咀嚼するのと同じだ。

 世の中ではこれを「思い出補正」とかなんとか言うんだろうなあ、と思いながら、今私は、ざらざらした砂糖まみれの甘ったるいグミを食べている。