帰省して1週間経ったこと

 飛行機に乗って地元に帰ってきたのが先週の月曜日のことだから、明日で、帰省してからちょうど1週間が経つ。休職手続き自体は既に3月の頭に済ませたので、休職から数えればおおよそ3週間くらい。最初の2週間を一人暮らしのアパートで過ごし、残りの1週間を地元で過ごしたことになる。

「うつになって地元に帰った」という単語は、なんだか慣用句のようで耳によく馴染む。「ミュージシャンを目指して上京」とか「自分探しに東南アジアへ」と同じようなたぐいの言葉だ。友達の友達とか、遠縁の親戚について簡潔に述べる時に使う、ちょっと困った「あるある」。量産型ではないが、オンデマンド印刷くらいのお手軽さはある現代人のテンプレートのひとつだ。「うつになって地元へ帰った」。勿論、この言葉が指す状況は幅広い。私はまだ離職したわけではないし、その気になれば(というか体調がよくなれば)明日にでも復活できるのだから(多分ね)、厳密にはまだ「帰った」とは言えないだろう。というか、言ったら負けな気がする。だからそう、これはあくまで「帰省」なのだ。

 そんなわけで、帰省して1週間が経った。事情を知っている人には「療養のため」と伝えてあるし、周囲も「地元でゆっくりしてきたらいいよ」と送り出してくれた。地元が横浜やら柏やらならまだしも、なんたって北海道である。社会人になったばかりの一人娘なんて猫可愛がりされているのだろうし、雄大な自然の中でゆったり羽根を伸ばしたらいいじゃない、と。まあ、周囲はそう思うだろう。実際、母親もしきりに電話で(私は母子家庭なので、帰省に関する相談は母親にだけすればよかった)「そのままひとりで家に居たって仕方がないんだし、とりあえず実家に戻ればぼうっとしてても食べ物くらいは出てくるんだから、帰ってきなさい」と言っていた。

 広いお部屋に三食昼寝つき。その辺に服を脱ぎ散らかしても片付けてもらえるし、床に寝転がってもホコリまみれになったりしない。……確かに、それは大変魅力的だ。

 そういう打算的な思考で以って、私は帰省に踏み切った。

 それで、1週間、である。「うつになって地元に帰」って「北海道の田舎で羽を伸ばし」て、さぞや快適な(それこそ、今も残業や土日出社に追われている同僚たちから「甘えるな死ね」と言われるような)療養生活を送っている——かと思いきや、案外、そうでもない。

 何を甘えたことを、と思われるだろう。自分でもそう思う。広いお部屋に三食昼寝つき、甘いお菓子もお盆にどっさり、食べ放題——なのだが、どうにも落ち着かなくて、気が休まらないのだ。所在がない、と言い換えてもいいかもしれない。隅々まで掃除の行き届いた綺麗な田舎の一軒家に、自分の腰を落ち着ける場所が見当たらない。それで「そういえば私が大学から東京に出た理由の一つは、この家からおさらばしたかったからだなあ」と思い出す。

 そこには今は既に連絡を断った父親とのあれこれも存分に絡むのだが、父はさておき、母はいわゆる「毒親」と言われるようなタイプの人間ではない。学歴も良識もあって、そこそこ目下の人間に慕われている、総合的に見て、色んな意味で、日本の六十代の平均よりちょっと上に位置しているようなタイプの人だ。私のことは一人の大人として適切な距離を置いて扱ってくれるが、たった一人の家族として愛してくれてもいる。昔から口癖のように「よりよい親でありたい」と言ってくれていたし、それは口だけではない、彼女の本心だと思う。

 母は、とてもまともで、善良な人間なのだ。

 私はそのことに、十分に感謝するべきだ。決して「まとも」とは言えない家庭環境にあった幼少期を経て成長した私が、きちんと学問を修めて、まあまあ、そこそこの大学へ行き、無事に就職して(まあ休職したけど)、これまで何の問題もなく人生を歩めてきたのは(まあうつになったけど)母のおかげだ。母は私に暴力を振るわないし、友達付き合いを制限したりしないし、「産まなければよかった」なんて口が裂けても言わない。休職の件も、母に明かすことを最後まで渋っていた私が「もうだめだ」となって初めて恐る恐る打ち明けたときにも、怒ったり責めたりしなかった。

 だからこそ、多分、息苦しいのだ。

 史上最強に贅沢で我儘なことを言っている自覚がある。誰に謝ったらいいのかわからないけれど、ごめんなさい。

 家の中は綺麗だ。北海道の田舎にある一軒家は、母子が2人で住むには広すぎて、空き部屋がいくつもある。リビングにはダイニングテーブルが1セットとテレビ、観葉植物と、ぽつんとガラステーブル。以前私が使っていた部屋も綺麗に片付いて、フローリングは自分の顔が映るくらいぴかぴかに磨き上げられている(まあ、がらんとしているのはぬいぐるみの写真を撮るのに好都合なので、それだけはありがたい)。

 そういう空間で、テレビで体に良いと紹介されていた玄米をたっぷり入れたご飯を綺麗なお茶碗に盛りつけられて出されると、やっぱり私は所在をなくしてしまう。家の中がひどく寒々しい。母は何も言わない。そろそろこちらでの通院先を探さなければならないし、いつ頃会社に戻るのか、そうでなくても一人暮らしのアパートに戻るのかも考えなければならないし、本気で療養するのなら朝きちんと起きなければならないし、ご飯を抜いてぼうっと布団の中で蹲っている場合ではないのに、何も言わない。多分、こういう時に急かしてはいけないと、テレビか本で見たのだと思う。とてもありがたい。優しい。でも、その優しさがひりひりする。たっぷりとアルコールを染み込ませた脱脂綿で体中を拭かれているような気持ちになって、いたたまれない。

 そんな贅沢で身の程知らずな不満を抱きながら、帰省して7日目の夜を迎えようとしている。

パワハラのこと

 今の休職とは直接関係は無いのだけれど、2年前の4月、新入社員として入社したての頃にいわゆる「パワハラ」を受けたことがある。初対面で「今日から精一杯がんばります」と言ったら「『頑張る』って何? 新入社員のあなたに何かできると思っているの? 『頑張ります』って、要は『期待してください』ってことよね? 期待されて大丈夫な自信があるの? 無いのならそんなこと気軽に言うのはやめなさい」ときつい口調で言われたのが始まりで、それ以上の詳しいことは書かないけれど、とにかく私の一挙一動に対してそんな感じだった。

 当時は今より更に精神的に参っていて、会社でパソコンに向かっているだけで涙が出てきて、周囲にばれないように慌ててトイレに駆け込んだりしていた。問題があったのは私の「メンター」として割り当てられた直接の上司で、今から思えば、なんというか、相手が目上だからとか仕事上の関係だからとか関係なく、いわゆる「ちょっとやばい」人だったのだと思う。

 ただ、当時の私は「なんだか変な人に当たってしまったなあ。嫌だなあ」と思って我慢するばかりで、誰にも何も相談していなかった。会社に入るまで、私にとっての人間関係というのは「合わなければいつでも距離を取れるもの」だったからだ。どうしても我慢できなくなったら逃げ出せばいい。意地悪なクラスメートにも、サークルのウザい先輩にもそうしてきた。LINEやTwitterをサッとブロックして、現実世界で顔を合わせても「どうも、こんにちは」程度に留める。それでいいやと思っていた。

 けれど、「会社」というコミュニティの中では、それは罷り通らなかった。ましてやその人は私のメンターなのだ。彼女が出会い頭に私に言ったように、私はまだ、会社にとって何の役にも立たないひよっこだ。彼女の隣に座り、彼女から渡される課題や仕事をこなし、至らない点があれば指導を仰がなければならない。「どうも、こんにちは」で逃げ出せる関係ではない。

 それで、どんどんストレスが溜まっていった。幸いにもその時は、見かねた周囲の人たちが更に上司に言ってくれて、私自身も、私が零した愚痴を聞いた友人たちの「それってパワハラだよ」という言葉に押されて会社の人たちに訴え出ることができた。もしあのままずうっと我慢し続けていたら、それこそ本当に、会社に行けなくなってしまっていたんじゃないかと思う。……まあ、どのみち今こうして休職しているのだけど。

 一応これは日々の忘備録と自分自身の思考の整理も兼ねているので、こんな感じで時々昔の出来事を纏めていけたらいいなと思う。

日記のこと

ふと「日記を書こう」と思い至って、ずっと放置していたはてなのアカウントを引っ張り出してきた。最後にまじめにブログを書いていたのなんて中学生かそこら、要はまだTwitterが数多のミニブログ系サービスのひとつだった時代のことで、あくまで本拠地はブログ、Twitterはおまけみたいな感じだった頃の話だ。その頃はアメブロとかヤプログとかいろんなブログサービスがあって、ブログのサイドバーに貼り付けて育てるペットとかがいたけど、今はもう流石にサービス終了しているんだろうな、と不意に寂しくなる。そしてこういう時、私はもう「十分に若い」という年齢ではなくなってしまったのだなと感じる。振り返って懐かしむだけの質量を持った「過去」が、既にできてしまった。

それはともかく、職場でいろいろあって休職して地元に帰ってきて暇なので、取り敢えず今日の日付と曜日くらいは忘れないようにしようという名目で始める日記である。三日坊主どころかホームページ最盛期の時代には自分のWEBサイトの外観を整えただけで満足してしまい、肝心の中身を1日たりとも更新しなかった経験すらある私だけれども、まあなんとかやっていこう、という気持ちだけはある。気持ちだけは。