『儚い羊たちの祝宴』のこと

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

 

 米澤穂信儚い羊たちの祝宴』を読んだ。ミステリはそこそこ好きだったのだけれど「ミステリ好き」を自称するほどでもない私は、恥ずかしながら米澤穂信という名前をこの時初めてしっかり認識した(今までは「なんとなく見たことある名前かも」くらいで、彼がどんな作家だか全然知らなかったのだ。『氷菓』の作者だというのも今回初めて知った)。

 本作は、ミステリ風の短編集だ。あえて「ミステリ」と書かなかったのは、後述するけれど、私はここに、ミステリというよりもアンチミステリの息遣いを感じ取ったからだ。勿論「ミステリはまあまあ好きだけどミステリ好きを自称するほどでもない」人間の、薄ぼんやりとした所感に過ぎないけれど。

 尚、この感想文にはいわゆるネタバレを含むので、もしもそういうのが苦手な方がここに辿り着いてしまっていたら、そっと見なかったことにしていただくのが良いかと思う。そういう人に対して私が言えるのは「面白かったので、取り敢えず読んでください」の一言だけだ。

 

『儚い〜』に収録されている短編は5作。そのいずれもが、とある女子大学の読書サークル「バベルの会」の関係者の独白、もしくは手記形式である。関係者と一口に言っても間柄は様々で、本人が会員のこともあれば、以前の雇い主の娘が所属していた、程度の距離感のこともある。だが、とにかく全ての話に共通して「バベルの会」が出てくる。

 収録作品のひとつひとつについては、ここでは詳細を省く。ただ一つ言えるのは、恐らくこれは、「ミステリ」という言葉で一般的に想像されるような「殺人のトリックを考えたり、犯人を予想しながら読み進める」といったたぐいのものではない、ということだ。読み物としては当然面白いけれど、ページを戻って確認しなければならないような伏線や、思わず膝を打つような種明かしは存在しない。事件の当事者は皆、一種の狂気を滲ませながらも淡々と独白を行うし、颯爽と現れた名探偵が事件を解き明かすこともない。全ての事件が実は背後で繋がっていて、真の黒幕あるいは偶然の一致により必然的に引き起こされたのだった——というオチでもない。全ての事件はあくまで独立している。

 それぞれの事件の当事者を繋ぐ唯一の共通点は「バベルの会」の関係者だということだ。では「バベルの会」とは何か。その正体は最後の短編『儚い羊たちの晩餐』で明かされる。……しかし、それもまた、実は金持ちのミステリ好きが集まって殺人ゲームを楽しむ禁断の倶楽部でした、などということはない。一時は「バベルの会」に所属しながらも除名された『晩餐』の主人公に向かって、「バベルの会」会長は、サークルの存在意義を「虚構と現実の境目を曖昧にしてしまう夢想家が身を寄せ合うためのものだ」と語る。夢想家の彼らにとって、「晩餐」の主人公は余りに現実主義者だった。根っからの現実主義者は、閉ざされた避暑地に奇書を持ち寄って囁き交わす読書会などに居場所を求める必要などないと、こういう話なのである。

「バベルの会」の、そのささやかな存在意義を知った時、私の脳裏に浮かんだのは日本四大奇書の一角をそれぞれに担う『虚無への供物』と『匣の中の失楽』だった。双方共に、アンチミステリと称されることの多い作品だ。(というか、この二作は本来並行して語るべき作品ではない。『匣の中の失楽』は明らかに『虚無への供物』をオマージュしているからだ)

 上述した二作品には、明らかな共通点がある。それは、とある事件を解決しようと推理に乗り出す探偵役が、皆生粋のミステリ好きの「素人」だ、という点である。『虚無への供物』の登場人物は、その殆どがバー「アラビク」の常連であり、年齢も立場も異なるものの、夜毎自分たちの愛読書の話に花を咲かせている。『匣の中の失楽』はもっと直接的で、探偵小説を愛読する若者たちが集まる例会が舞台だ(まあ、単にミステリ好きが集まって推理する、という舞台設定それ自体は、別に珍しいものでもないけれど)。

『虚無への供物』の登場人物がミステリ好きの素人たちであることには、文字通り既存のミステリへのアンチテーゼとなる、重要な意味がある。『匣の中の失楽』についても、『虚無への供物』ほどではないものの、虚構と現実がごたまぜになる、という酩酊感を作り出す上で例会は重要な役割を果たしている。彼らは皆「あの作品にこんなトリックがある」とか「あの作家がこんなことを言っていた」とか言って、今ここで起きている事件にミステリの文脈を持ち込み、上書きし、結果として事件を必要以上に複雑怪奇にしてしまう。

 そう、『虚無への供物』も『匣の中の失楽』も「虚構と現実の境目を曖昧にしてしまう夢想家」たちの物語なのだ。私が『儚い羊たちの祝宴』をアンチミステリだと感じ取った理由は、恐らくここにある。

 本来「本格ミステリ」と呼ばれるものは、どこまでも現実の物語である必要がある。長々と引っ張った上に明かされるトリックが殆ど偶然の産物だったり、殺人の動機がくだらないことだったり、というのではブーイングものだ。

 けれど、ミステリは一枚岩ではない。ポーや乱歩(これも本来並行して語るべきではない名前だけれど)をはじめとした「狂気や虚構と隣り合わせ」のミステリは確かに存在し、そしてそれらは、いわゆる「本格ミステリ」よりも更に人を狂わせる。

 ミステリは本来現実的な存在だが、その熱狂者は大抵が夢想家なのだ。……そもそも夢想家でなければ何かに熱狂することなどないかもしれないが。

 恐らく『儚い羊たちの祝宴』に登場する「バベルの会」の会員たちは、『虚無への供物』の「アラビク」常連客や『匣の中の失楽』の例会のメンバーと同じだ。奇書に触れ狂気を育み、虚構と現実の境目をどこか曖昧にしたまま生きる人々だ。

 けれど、彼らには前者二作品の登場人物たちとの決定的な違いがある。

 明らかに「格落ち」なのだ。これは、作品の質がどうとか、そういう批判的な意味合いではない。

「バベルの会」の会員たちは、皆ポーや乱歩に耽溺し、現実とミステリとを重ね合わせ、その境界線がどこか曖昧になったまま生きている。それは『虚無への供物』や『匣の中の失楽』と同様だ。……だが、彼らはあくまで「羊」なのである。現実と幻想とを取り違えたまま、その境界の上で危うげに揺れたまま、けれどそこを踏み違える事は決してない。彼女たちは事件の引き金を引かないし、殺人事件の推理に嬉々として乗り出したりもしないのである。

 厳密に言えば、一人だけ例外がいる。第一の短編『身内に不幸がありまして』に登場するお嬢様、吹子は、バベルの会の会員であり、そして殺人者だ。だが、彼女はバベルの会の泊りがけの読書会には参加しない。故に「羊」であることから免れる。

 第五の短編『儚い羊たちの晩餐』は、バベルの会から追い出された現実主義者であるところの主人公鞠絵が、その生活の中で徐々に心を狂わせ、遂には泊りがけで読書会を行っていた会員たちを、家付きの料理人に皆殺しにさせる至る物語である。つまり作中における「羊」は犠牲となった会員たちであり、「晩餐」というのは、彼女たちの肉を使って作られた料理のことだ。料理人に殺人を命じた主人公鞠絵は、その「料理」が大量の材料を必要とすることを知らず、知らず知らずのうちに虐殺を命じてしまったことに気がついて気を狂わせる。彼女は、最後まで現実側に足を着いた人間だった。故に彼女もまた「羊」ではない。

 羊は、元より弱い生き物だ。それに「儚い」が付く。犠牲となったバベルの会の会員が皆、虚構と現実の間に身を置きながら、けれどもどこまでも無害な生き物であったことが強調されている。

 冒頭『身内に不幸がありまして』の吹子と、ラストの『儚い羊たちの晩餐』の鞠絵以外は、バベルの会の会員は直接登場してこない。間に挟まった3つの事件の犯人は、それぞれ会員たちと面識のあった使用人だ。故に、彼らも「羊」ではない。

 つまり『儚い羊たちの祝宴』というのは、その全編を通して「儚い羊」が、より強い狂気を抱く者、あるいは徹底して現実に生きる者に殺されるに至る物語なのである。

 一方的に殺される「羊」を私達は知らない。彼女たちは事件の加害者ではないから独白をすることもないし、惨殺された時の風景については描写されていない。……ただ、恐らくは、無力に、震えながら逃げ惑ったのであろう、ということが想像される。

 彼女たちは虚構と現実をないまぜにしながらも、虚構で現実を上書きするような力を持たない。故に『虚無への供物』とも『匣の中の失楽』とも違う、彼らのようにはなりきれない、あくまで「儚い」羊なのだ。彼女たちの夢想は、毒にも薬にもなりはしないのである。

 避暑地のサンルームで次々とその命を奪われる、無垢ではないが無力な乙女たち。彼女たちの横顔はわからない。ただぼんやりとしたイメージがあるだけだ。私達に独白をするのは、皆「羊」になることを免れた者たちなのだから。

 そもそも『晩餐』の主人公鞠絵が料理人に彼女たちの殺人を命じたのは「バベルの会」を除名されたことが原因だった。そしてその理由は前述の通り「現実に足をつけている彼女は、羊たちにとって強すぎた」からである。逆に言えば、羊たちは弱すぎた。そして、その弱さ故に殺されるのだ。「まるでミステリのような」動機と方法で。

 読了した後に調べて知ったのだけれど、この短編集は「『そんな理由で殺すなよ』とツッコまれるような奇妙な動機のシリーズで揃え、オチは読めるが皆それを言うのを待っているという落語的なものを念頭に置いていた」という。そういうところがまた、非常にアンチミステリ的だと、素人目線ながらそんな感想を抱いた小説だった。