「善良だけどしんどい人」のこと

 世の中には、案外「善良な人」が多い。社会に出てそれを学んだ。学生の頃は付き合う相手を選ぶことができたから、基本的には「面白い人」とばかり一緒に過ごしていた。サークル活動だの授業だので一緒になる人の中には苦手だったり嫌いなタイプもいるけれど、四六時中顔を合わせているわけではないので、そこまで気にならない。食べ放題のバイキングで好きなものだけお皿に乗せるみたいに、自分の好きな相手とだけ一緒にいられる。全ての学生がそうだとは思わない。けれど、私はごくたまたま、そういう「ぬるま湯」の中で22年間過ごしてきた。

 ところが、社会に出るとそうもいかない。最初に一緒に仕事をすることになったメンターは「善良な人」とは言い難かった。それでも、周囲の人たちが気にかけ、助けてくれた。父は私に、口を酸っぱくして「他人は全て敵と思え」と教えてきたけれど、短い社会人経験の中で、私は「そんなことないじゃん」と思った。人は、別に利害関係が無くたって困っている人に手を差し伸べることができる。一度や二度の失敗なら笑って許してくれる。誠意を持って接すれば、同じように誠意で返してくれる。

 けれど、じゃあその「善良な人」が皆「いい人」かというと、そうは限らない。それもまた、短い社会人生活の中で学んだことだ。

 職場での一番のストレスは、仕事の中での人間関係だった。別に、誰かに意地悪されていたわけではない。パワハラもセクハラも無かったし、皆一緒にご飯に行けば楽しく笑い合えるような人たちだった。私よりもつらい思いをしながら、それでも毎日会社に行っている人は沢山いると思う。少なくとも私は、明確な敵意に晒されたことなんて、一度もないのだ。

 それでもしんどかった。しんどいと思うこともしんどかった。完璧な善意で以て、私に沢山のアドバイスをくれる人がいた。よりよい仕事をするのだという熱意で以て、私の指示に反対する人がいた。その反対を飲み込むには、また別の「善良な人」を納得させる必要があり、その人もまた、善意や熱意で「そういうわけにはいかない」と拒絶を示した。でも、誰も私を責めてはいなかった。私が勝手にしんどくなって、勝手に彼らを恐れたのだ。その事実が何よりしんどかった。

 いまこうして職場を離れて一番最初に考えることは、「彼らにどう思われているのだろう」という、その一点だ。別に虐められていたわけでもない。会社では図太くてちょっと適当で口の悪いキャラだったから、何かを気に病んでいた素振りはほとんどなかった(と思いたい)。「これだけの善意で接していたのに、いったいあの人は何が不満だったんだろう」と、善良な彼らは思っているのではないだろうか。それとも、その善良さで以て「きっと何か大変だったのね」と曖昧に流してくれているだろうか。あるいは、私のことなんてすっかり忘れてくれているだろうか。最後が一番気楽だけれど、そうなると、再び顔を見せる時が恐ろしくなる。彼らは善良だから、きっと突然戻ってきた私に対して不信感を抱くようなことはないだろうけれども。

 世の中には善良な人がたくさんいる。でも、我儘な私は「いっそのこと彼らが意地悪な人であればよかったのになあ」と思ってしまう。そうすれば少なくとも、堂々と「しんどい」と思えた。

 相変わらず贅沢なことを言っている自覚がある。今この瞬間も「善良ではない人」によって傷つけられている人がたくさんいるのに。善良でない私は、相変わらず、今日もそんな罰当たりな不平を漏らしている。皆さん、ごめんなさい。