出社までのハードルのこと

 前のエントリに書いたように、今週の頭から復職している。いきなりフルタイムで5日間フルは若干の不安があったので、初週は時短勤務をさせてもらうことになった。……が、もう既に体力の限界を感じている。単に今まで外出していなかった肉体的な反動が来ている、というよりも「毎日決まった時間に家を出て多くの人が集まる場に出ていく」ということそれ自体がストレスになっている感じだ。

 とはいえ、いつまでもそんなことを言っていても仕方がないので「朝出社がつらい」の中身を細かく砕いて内訳を洗い出してみることにした。目の前に立ちはだかる問題が大き過ぎてどこから手を付けたら良いか分からない時は細かく分解してみるといいよ、となんか偉い人が言っていた気がするからだ。

そもそも起きるのがつらい

  昼夜逆転の生活を送っていたせいで夜に眠れず、朝方に多少まどろんだ程度で起き出す羽目になるので肉体的に起き上がるのがつらい……という、なんとも当たり前で贅沢な話である。これについてはもう「さっさと寝てまともな時間に起きる」以外に対処のしようがない。ただし、(これは休職する前からそうだったのだけれど)実際は前日にお酒も飲まずまっとうな時間に眠った翌朝に限って起き上がれず、結果として会社を休んでしまう……ということが多かった。故に、肉体的な疲れと眠気が原因で会社に行けない、というケースは極稀なのだと思う。

業務内容がつらい

 休職に至った理由の中では、これが一番大きなウエイトを占めていたと思う。人間関係は別にそこまでまずくなかった。できれば関わりたくない人はいたけれど、自分の席に座っているだけで誰かから罵詈雑言を浴びせられたりいじめられたりすることは無かったのだから。

 業務量が多すぎて大変だった時期はあったけれど、この頃はむしろ会社を休むなんて考えられなかった。その日こなさなければならないタスクが山積みで「嫌だなあ」なんて考える暇もなかったからだ。業務の量が落ち着いてきて、それをこなす上で必要な「つらい会話」が増えてくるに従って「どうしても今日やらなくちゃいけないわけじゃないし、会話をするのにパワーがいるから休みたい」というメンタルになってしまったのだ。思えば子供の時から、夏休みの宿題は溜め込むタイプだった。

 けれど復職して新しいチームになったばかりの私には、これも関係がない。

身支度がつらい

 朝起きて仕事に行くまでには「身支度を整えて社会人として恥ずかしくない状態」になる必要がある。私の会社は私服勤務で、皆かなりラフな格好で職場に来ているので、ビジネスカジュアルがどうとか気にする必要はない。ないのだが、起きてから会社に行くまでにはおおよそ以下の準備を必要とする。

  • シャワーを浴びる
  • 顔を洗う(大体シャワーと一緒に済ませる)
  • 服を着る
  • 化粧をする

 このうち、シャワーについては前日に済ませておけば問題ないのだけれど、夜にお風呂に入らず朝シャワーを浴びるという習慣は子供の頃からのものなので今更変えようがない。というより、私自身出かける直前にシャワーを浴びなければ気持ちが悪い。夜歯磨きをしないと寝付けないのと同じようなものだ。面倒だからといってシャワーを浴びないのは周囲の迷惑にもなる。髪の毛がギトギトの相手と一緒に仕事をしたくはないだろう。

 服を着る、というのも社会人には必須の行為だ。着る服を用意するには洗濯をする必要があるが、これも結構ハードルが高い。うちには洗濯機がないので近くのコインランドリーまで洗濯物を持っていき、回し、持って帰って干すという一連の行為が必要になる。休職前はこれが唯一の「土日にこなさなければならないタスク」だった。でも、これにしたって「ごちゃごちゃ言ってないで頑張る」以外の選択肢はない。

 最後の化粧だけが、唯一ショートカットできそうなステップだ。先程も言ったように私の職場では服装的な配慮はほとんど求められないので、女性だろうがジーンズにTシャツ、スニーカーにすっぴんで出社しても何も言われない。考えれば考えるほど緩くて優しい職場だ。なんで休職なんてしたんだろう。

 

 こうして中身を分解してみると、今の私にとって「朝出社することのつらさ」は、ほとんど「身支度を整えてたくさんの人間が出ていくことのつらさ」と同義であるらしい。確かに同じような理由で友達と遊びに行く予定をドタキャンしてしまったことが何度もある。中でも服を着ることとシャワーを浴びることは避けられないので、なるべくこの「つらさ」を軽減しようとするのなら、あとはもうすっぴんで出社するしかない。

 ……というわけで、今日は化粧をせずに会社に出てきた。当たり前だが、誰も「今日はすっぴんなんですね」なんて言ってくる人はいない。もしかすると同じ女性社員の中には「あの人すっぴんかな」と思っている人がいるかもしれないが、そもそも、よく考えたら同僚の顔なんて毎日そんなに注視していないし、仮に「すっぴんかな」と思ったところで、別に気分を害するわけでもない。

 そういうわけで、今日から「出社がつらい」と思った時にはメイクをショートカットすることにした。なんとなくスースーするような気持ちはあるけれど、会社を休むよりはブサイクな顔をブサイクなまま、それでも出ていった方がよほどマシだ。唯一気をつけることがあるとすれば、普段の化粧を濃くしすぎないことだろうか(だってほら、すっぴんになったときにギャップが激しいから)。

 幸いにも、周りの人たちはみんな「取り敢えずは無理しないこと、出社することに慣れることが先決だから休んだり早退したりは気にせずにね」と言ってくれている。その優しさに甘えるだけ甘えて、すっぴんにジーンズにTシャツで、取り敢えず夏だけでもなんとか乗り切りたい。

復職のこと

 東京に帰ってから変わり映えのしない毎日を過ごしていたので特に書くことも無かったのだけれど、昨日から遂に復職した。本当はもっと早く復帰する予定だったのだけれど、会社に「復職したいです」と連絡を入れて「産業医面談に来てね」と返答を貰ってから数日、復職のための診断書を貰うのに更に数日……と微妙に時間がかかってしまって、当初の予定より2週間くらい遅れての復職になった。「いつ復職できるのかはっきりしなくて困るなあ」と悶々とする日々が続いたかと思えば、木曜の夜に「来週の月曜から復職お願いします」と唐突に連絡が来たりしててんやわんやだったけれど、取り敢えず、形だけでもなんとか「復職」は成し遂げることができた。

 とはいえ、私の実生活を知っている友人の殆どは「本当にお前、今の状態で社会に復帰できるの?」と疑いの目線を向けているし、相変わらず通い続けている心療内科の先生は「君がどうしても復職したいのなら診断書は書くけれど、まだおすすめしないよ」というスタンスだったので、正直「体調は万全! これから毎日頑張ります😇」なんて自信満々に言える状態とは到底言い難いのだけれど、取り敢えずは人間らしい生活のレールに乗れた、ということにしておきたいと思う。

 そういえばブログの紹介文に「休職中の忘備録」とかなんとか書いていた気がするけれど、これからなんて書こう。復職中の忘備録、か。またいつの間にか「休職出戻り忘備録」とかになってたら察してください。

東京に帰ってきたこと

 東京に帰ってきた。以前のエントリで書いたように実家生活ではどこか息の詰まる思いがあったので、無事自分の家に帰ってくることができて安心した——かと思いきや、そうでもない。

 郵便受けに、留守にしていた間に届いた請求書が溜まっている。カードの支払のことや、ガスを止めますといった連絡だ。それらは勿論、私が実家に帰っている間に投函され、実家でご飯を食べたりお風呂に入ったりしている間にも変わらずそこにあった。別に、私が家に帰ってきたから降って湧いたわけではない。これが現実だ、と思い知らされる。

 母はどうやら、私が彼女に遠慮して居心地の悪い思いをしていることを感づいているらしかった。空港まで送ってもらう途中、何度も「遠慮しないで、お金のことだけは、必要な時はきちんと言って。貯金はあるから、大丈夫だから」と言われた。けれど「お金があるから、大丈夫だから」なんだというのだろう。結局のところ、私は社会人生活たったの3年目にして会社を休職し、実家に金銭的にも肉体的にもお世話になっているわけで、こんなものは全然「自立」ではない。小さな頃からずっと「大人になったら自分ひとりで生きていけるようになるんだ」と思い描いていたものとは全然違う。

 母は何も言わない。東京に帰ると言った時も反対せずに送り出してくれた。私はとても幸せものなのだと思う。その幸福に早く報いなければと思う今日このごろ。

『スタンド・バイ・ミー』のこと

  映画好きの端くれを自称しているので、様々な家庭事情を背景に持つ少年少女のささやかな冒険譚を、「スタンド・バイ・ミー的な」と表現することがある。これは便利な表現だ。『スタンド・バイ・ミー』を観たことがある人は、その一言で作品の雰囲気や繊細さ、危うさを感じ取ることができるし、観たことがない人もなんとなく「子どもたちが小さな冒険をする話なんだなあ」と想像できると思う。この作品は、そのくらい有名で「言わずと知れた名作」だ。

 そんな『スタンド・バイ・ミー』を、かなり久々に見返した。恥ずかしながら、今回見返すまで、私は『スタンド・バイ・ミー』の内容をほとんど覚えていなかった。あれだけ訳知り顔で『IT』を「ホラー版スタンド・バイ・ミーだよ」なんて人に紹介していたのに。やはり私の中でも『スタンド・バイ・ミー』は「スタンド・バイ・ミー的なもの」を指し示すための一つの記号と化してしまっていたのだった。

 偶然TSUTAYAに行く機会があって、そこの「名作コーナー」の棚に並んでいるのを見た時に「そういえば、話の中身をきちんと覚えていないな」と思って手に取った。覚えているのは4人の少年たちが並んで線路を歩いていくシーンと、彼らの目的が「死体を見に行くこと」だったことだけだ。

 家に帰ってDVDプレイヤーを起動した。DVDを観るのなんて久々だったから、何度も「入力切替」を押してプレイヤーが繋がっている場所を探した。約90分間テレビの前で大人しくしてわかったことは、やはり『スタンド・バイ・ミー』は「4人の少年たちが並んで線路を歩いて死体を見に行く話」だ、ということだった。

 あらすじを紹介しろと言われれば、そうとしか言えない。起承転結に書き起こして誰かに聞かせたところで「うわー面白そう! 観てみたい!」とは思わないだろう。思えば、私が最初にこの映画を観た時も、様々な人に「名作だから」「これを観ていなければ到底映画好きなどとは名乗り難いから」と言われたからだったような気がする。

 要するに、あらすじが殆ど存在しない。『マッド・マックス 〜怒りのデス・ロード〜』と同じだ。あれも砂漠を行って帰ってくるだけの映画だった。

 多分、『スタンド・バイ・ミー』はストーリーを観る映画ではないのだ。彼らの会話から、危うい友情と、それが、このひと夏が終われば崩れてしまうものだということを肌で感じとる。それは最後まで言語化されることは無いけれど、やはり主人公たちも肌で感じている。

 私にも「スタンド・バイ・ミー的な」時を過ごした友人が何人かいた。親に嘘をついて一緒にちょっと悪いことをしたり、その時しかできないばかみたいなことをした。彼らの大半はやっぱり成長と共に疎遠になってしまった。けれど、そのうちの一人はいまでもSNSで繋がっていて、こまめに連絡を取り合っている、どころか、今日の夕飯が何だったか、職場でどんな嫌なことがあったかまで知ることができる。疎遠になってしまった他の友人たちにしても、その気になれば似たような精度で情報を得ることができる。

 そういうことを考えると「時代が変わったなあ」と思う。「スタンド・バイ・ミー的な」あの頃は、きっともうどこにも存在しないのではないだろうか。その事実を良いことだと思うか、情緒が失われたと懐古するかは別として。

 ともあれ、これからは胸を張って「スタンド・バイ・ミー的」という言葉を使っていこうと思う。いつかまた「確か4人の少年たちが並んで線路を歩いて死体を見に行く話だったような気がするけど、詳しく覚えてないなあ」と思う日がくるまでは。

「まぜて」と言えたあの頃のこと

 休職して暇なので、今まで以上にゲームやチャットに精を出している。

 自分で探すようになって気がついたのだけれど、世の中には、案外人との繋がりに飢えている人が沢山いる。Twitterでは多くの人が「#hogehogeさんと繋がりたい」というタグを使って仲間を探しているし、掲示板を見に行けば、毎日のように誰かがLINEのIDを交換してくれる相手を募っている。今どきPC専用サイトのチャットルームなんて誰が使うんだろうと不思議になるくらいなのに、チャットルーム一覧を見ると、必ずどこかひとつには入室者がいる。みんな寂しいんだなあ、と思う。

 思えば、毎日のように見知らぬ誰かと会話をするというのは久しぶりだ。小学生の頃、インターネットの面白さに目覚めて手当たり次第に友達を作っていたあの頃以来ではないだろうか。当時はチャット文化の全盛期で、猫も杓子も、「○○のお部屋」みたいな素朴な個人サイトもチャット機能をつけていた。勿論大規模なサービスも豊富にあった。私のお気に入りはYahoo!チャットやもなちゃと、綺麗なドット絵の世界で自分の部屋を飾りつつお喋りを楽しめるhabboホテルあたりだっただろうか。以前記事を書いたリヴリーも、そういえば可愛い見た目で楽しめるチャットとして優秀だった。

 

yorunonikki.hatenablog.jp

 

 今ではすっかり、人との交流の場はTwitterに限られている。それも新しく友人を作りに行くということは滅多になく、大抵は同人活動をするうちに自然と作品をよく見かけるようになってフォローし合った人だとか、その人の友だちだとかになってくる。

 Twitterから始まる交流は、非常に段階的でゆったりとしている。

 まず、相手のプロフィールを見てフォローを送り「あなたに興味があります」と示す。相手がフォローを返してくれたら両思いだ。丁寧な人は、この時点で挨拶をくれたりする。私はもっと緩くTwitterを使っているので、相互フォロー時点では特に何もしない。挨拶をされたら、挨拶を返す程度だ。

 次に、タイムラインに流れてくるつぶやきで相手の情報を知る。興味のあるものやこと、文字通り「今何してる?」か、その人の主義主張、エトセトラ。それは単なる「呟き」なので、こちらは反応してもしなくてもいい。向こうも、特定の誰かに語りかけるつもりでは喋っていない。ただ、興味がある話題、自分にも語れそうな話題が「流れて」きた時に反応を示せばよい。既に話題は固定されているので、話すに困るようなことはない。お互いに惹かれ合えばそのまま仲良くなれるし、ちょっと話して「噛み合わないな」と思っても、どうせお互いの「つぶやき」の延長線上なのだから無理をして会話を続ける必要もない。とても気楽なコミュニケーションツールだ。

 SNSに疎いひとから「Twitterの何がいいの?」と聞かれた時、だから私は、上述したようなことを喋って「要するに『緩く誰かと繋がっていられる』という魅力があるんですよ」という言葉で〆る。Twitterは、相手に初めから密な関係を強要しない。大人数でわちゃわちゃしている間にいつの間にか仲の良い相手ができている。大学のサークルか何かで、活動に参加したりメンバーと遊びに行ったりするうち、馬の合う相手ができて親友や恋人になる……というイメージだ。

 けれど、いわゆる「野良の」チャットや、掲示板の「友達募集」は違う。話題も提示されていなければ相手のプロフィールもわからない状態で、いきなり「おしゃべり」が始まる。ゲーム内チャットなら「このゲームのこと」という大前提の共通言語があるからまだいいけれど、本当に只の「たのしいチャットルーム」みたいな場だと悲惨だ。だって、何から話せばいいか分からない。相手が何が好きで何が嫌いか、どんなことに興味があるかわからないのだ。Twitterが大学のサークルなら、こちらは最早お見合いでだ。友達募集なら最低限度のプロフィールくらいはあるじゃん、と思うかも知れないが、これもあってないようなものである。

 たとえば「映画好きです」と自称している人が「金曜ロードショーは毎週見てるよ」なのか「ミニシアターの年パスを所持していて新作の上映には必ず足を運ぶ」のか、それとも「ヒーロー映画の大ファンで、原作のコミックも読んでいる」のかわからない。それに反応する方も同じで、映画好きと聞いて『揺れる人魚』の話題を引っ提げていったら、向こうは『アベンジャーズ』が人類の基礎教養だと思っていた、みたいな事故が、全然起きうる。

 Twitterならそうはならない。プロフィールに「映画好き」としか記載していなくても、タイムラインを見れば、その人のつぶやきで「フランス映画好きだな」とか「西部劇ファンだな」とか「さてはゾンビ映画しか観てないな」とか推し量ることができる。その人のつぶやきに興味があれば、こちらに提供できる話題が無くても一方的に見守っていればいいし、興味がなければそっとフォローを外してしいまえばいい。

 けれど、チャットではそれができない。唐突に、お題すら存在しない状態で開始されるコミュニケーション。場に複数人いる時は気が楽な方で、これが一対一になると、響く話題を探してお互いに浅く広く、当たり障りのない世間話ばかりをすることになる。

 そういう七面倒臭いことを回避するにはざっくばらんに相手の興味のある対象について聞いてしまった方が楽だが、「何が好きですか?」なんてざっくりとした聞き方をしては困惑させるばかりだ。

 勿論、奇跡的に噛み合いがよく、初対面なのに数時間後には数年前からの友人同士のように話せていることもある。けれど、大抵の場合はお互いに腹の中を探り合ううちに終わってしまう、悲しい「お見合い」だ。

 そういうことを考えるにつけ、誰にでも気軽に「まぜて」と言えていたあの頃は何だったのだろう、と思い出す。初めて入ったチャットルームで、チャットの常連さんたちが仲良さそうに会話をしていても、臆することなく「こんにちはー」と入っていけた。会話の引き出しは今のほうが多いはずなのに、少ない引き出しを上手く使って、人との距離をさっと縮めていた。確かに深い関係になることは珍しかったけれど、たとえば、他の常連さんたちが一人二人と「落ちて」行っても、残った人に「じゃあ私も……」と言われず、そのまま喋っていられるような気安さがあった。

 相手の素性も、年齢も性別も一切知らないままに「まぜて」と言うことのできたあの頃の私は、今と何が違ったのだろう。十余年で、一体何が変わったのだろう。

 もしかするとこれが「歳をとる」ということなのだろうかと思いつつ、いつか十年前のように「まぜて」と言える日を夢見て、今日も小さなチャットルームで「はじめまして」を繰り返している。

「善良だけどしんどい人」のこと

 世の中には、案外「善良な人」が多い。社会に出てそれを学んだ。学生の頃は付き合う相手を選ぶことができたから、基本的には「面白い人」とばかり一緒に過ごしていた。サークル活動だの授業だので一緒になる人の中には苦手だったり嫌いなタイプもいるけれど、四六時中顔を合わせているわけではないので、そこまで気にならない。食べ放題のバイキングで好きなものだけお皿に乗せるみたいに、自分の好きな相手とだけ一緒にいられる。全ての学生がそうだとは思わない。けれど、私はごくたまたま、そういう「ぬるま湯」の中で22年間過ごしてきた。

 ところが、社会に出るとそうもいかない。最初に一緒に仕事をすることになったメンターは「善良な人」とは言い難かった。それでも、周囲の人たちが気にかけ、助けてくれた。父は私に、口を酸っぱくして「他人は全て敵と思え」と教えてきたけれど、短い社会人経験の中で、私は「そんなことないじゃん」と思った。人は、別に利害関係が無くたって困っている人に手を差し伸べることができる。一度や二度の失敗なら笑って許してくれる。誠意を持って接すれば、同じように誠意で返してくれる。

 けれど、じゃあその「善良な人」が皆「いい人」かというと、そうは限らない。それもまた、短い社会人生活の中で学んだことだ。

 職場での一番のストレスは、仕事の中での人間関係だった。別に、誰かに意地悪されていたわけではない。パワハラもセクハラも無かったし、皆一緒にご飯に行けば楽しく笑い合えるような人たちだった。私よりもつらい思いをしながら、それでも毎日会社に行っている人は沢山いると思う。少なくとも私は、明確な敵意に晒されたことなんて、一度もないのだ。

 それでもしんどかった。しんどいと思うこともしんどかった。完璧な善意で以て、私に沢山のアドバイスをくれる人がいた。よりよい仕事をするのだという熱意で以て、私の指示に反対する人がいた。その反対を飲み込むには、また別の「善良な人」を納得させる必要があり、その人もまた、善意や熱意で「そういうわけにはいかない」と拒絶を示した。でも、誰も私を責めてはいなかった。私が勝手にしんどくなって、勝手に彼らを恐れたのだ。その事実が何よりしんどかった。

 いまこうして職場を離れて一番最初に考えることは、「彼らにどう思われているのだろう」という、その一点だ。別に虐められていたわけでもない。会社では図太くてちょっと適当で口の悪いキャラだったから、何かを気に病んでいた素振りはほとんどなかった(と思いたい)。「これだけの善意で接していたのに、いったいあの人は何が不満だったんだろう」と、善良な彼らは思っているのではないだろうか。それとも、その善良さで以て「きっと何か大変だったのね」と曖昧に流してくれているだろうか。あるいは、私のことなんてすっかり忘れてくれているだろうか。最後が一番気楽だけれど、そうなると、再び顔を見せる時が恐ろしくなる。彼らは善良だから、きっと突然戻ってきた私に対して不信感を抱くようなことはないだろうけれども。

 世の中には善良な人がたくさんいる。でも、我儘な私は「いっそのこと彼らが意地悪な人であればよかったのになあ」と思ってしまう。そうすれば少なくとも、堂々と「しんどい」と思えた。

 相変わらず贅沢なことを言っている自覚がある。今この瞬間も「善良ではない人」によって傷つけられている人がたくさんいるのに。善良でない私は、相変わらず、今日もそんな罰当たりな不平を漏らしている。皆さん、ごめんなさい。

『儚い羊たちの祝宴』のこと

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

 

 米澤穂信儚い羊たちの祝宴』を読んだ。ミステリはそこそこ好きだったのだけれど「ミステリ好き」を自称するほどでもない私は、恥ずかしながら米澤穂信という名前をこの時初めてしっかり認識した(今までは「なんとなく見たことある名前かも」くらいで、彼がどんな作家だか全然知らなかったのだ。『氷菓』の作者だというのも今回初めて知った)。

 本作は、ミステリ風の短編集だ。あえて「ミステリ」と書かなかったのは、後述するけれど、私はここに、ミステリというよりもアンチミステリの息遣いを感じ取ったからだ。勿論「ミステリはまあまあ好きだけどミステリ好きを自称するほどでもない」人間の、薄ぼんやりとした所感に過ぎないけれど。

 尚、この感想文にはいわゆるネタバレを含むので、もしもそういうのが苦手な方がここに辿り着いてしまっていたら、そっと見なかったことにしていただくのが良いかと思う。そういう人に対して私が言えるのは「面白かったので、取り敢えず読んでください」の一言だけだ。

 

『儚い〜』に収録されている短編は5作。そのいずれもが、とある女子大学の読書サークル「バベルの会」の関係者の独白、もしくは手記形式である。関係者と一口に言っても間柄は様々で、本人が会員のこともあれば、以前の雇い主の娘が所属していた、程度の距離感のこともある。だが、とにかく全ての話に共通して「バベルの会」が出てくる。

 収録作品のひとつひとつについては、ここでは詳細を省く。ただ一つ言えるのは、恐らくこれは、「ミステリ」という言葉で一般的に想像されるような「殺人のトリックを考えたり、犯人を予想しながら読み進める」といったたぐいのものではない、ということだ。読み物としては当然面白いけれど、ページを戻って確認しなければならないような伏線や、思わず膝を打つような種明かしは存在しない。事件の当事者は皆、一種の狂気を滲ませながらも淡々と独白を行うし、颯爽と現れた名探偵が事件を解き明かすこともない。全ての事件が実は背後で繋がっていて、真の黒幕あるいは偶然の一致により必然的に引き起こされたのだった——というオチでもない。全ての事件はあくまで独立している。

 それぞれの事件の当事者を繋ぐ唯一の共通点は「バベルの会」の関係者だということだ。では「バベルの会」とは何か。その正体は最後の短編『儚い羊たちの晩餐』で明かされる。……しかし、それもまた、実は金持ちのミステリ好きが集まって殺人ゲームを楽しむ禁断の倶楽部でした、などということはない。一時は「バベルの会」に所属しながらも除名された『晩餐』の主人公に向かって、「バベルの会」会長は、サークルの存在意義を「虚構と現実の境目を曖昧にしてしまう夢想家が身を寄せ合うためのものだ」と語る。夢想家の彼らにとって、「晩餐」の主人公は余りに現実主義者だった。根っからの現実主義者は、閉ざされた避暑地に奇書を持ち寄って囁き交わす読書会などに居場所を求める必要などないと、こういう話なのである。

「バベルの会」の、そのささやかな存在意義を知った時、私の脳裏に浮かんだのは日本四大奇書の一角をそれぞれに担う『虚無への供物』と『匣の中の失楽』だった。双方共に、アンチミステリと称されることの多い作品だ。(というか、この二作は本来並行して語るべき作品ではない。『匣の中の失楽』は明らかに『虚無への供物』をオマージュしているからだ)

 上述した二作品には、明らかな共通点がある。それは、とある事件を解決しようと推理に乗り出す探偵役が、皆生粋のミステリ好きの「素人」だ、という点である。『虚無への供物』の登場人物は、その殆どがバー「アラビク」の常連であり、年齢も立場も異なるものの、夜毎自分たちの愛読書の話に花を咲かせている。『匣の中の失楽』はもっと直接的で、探偵小説を愛読する若者たちが集まる例会が舞台だ(まあ、単にミステリ好きが集まって推理する、という舞台設定それ自体は、別に珍しいものでもないけれど)。

『虚無への供物』の登場人物がミステリ好きの素人たちであることには、文字通り既存のミステリへのアンチテーゼとなる、重要な意味がある。『匣の中の失楽』についても、『虚無への供物』ほどではないものの、虚構と現実がごたまぜになる、という酩酊感を作り出す上で例会は重要な役割を果たしている。彼らは皆「あの作品にこんなトリックがある」とか「あの作家がこんなことを言っていた」とか言って、今ここで起きている事件にミステリの文脈を持ち込み、上書きし、結果として事件を必要以上に複雑怪奇にしてしまう。

 そう、『虚無への供物』も『匣の中の失楽』も「虚構と現実の境目を曖昧にしてしまう夢想家」たちの物語なのだ。私が『儚い羊たちの祝宴』をアンチミステリだと感じ取った理由は、恐らくここにある。

 本来「本格ミステリ」と呼ばれるものは、どこまでも現実の物語である必要がある。長々と引っ張った上に明かされるトリックが殆ど偶然の産物だったり、殺人の動機がくだらないことだったり、というのではブーイングものだ。

 けれど、ミステリは一枚岩ではない。ポーや乱歩(これも本来並行して語るべきではない名前だけれど)をはじめとした「狂気や虚構と隣り合わせ」のミステリは確かに存在し、そしてそれらは、いわゆる「本格ミステリ」よりも更に人を狂わせる。

 ミステリは本来現実的な存在だが、その熱狂者は大抵が夢想家なのだ。……そもそも夢想家でなければ何かに熱狂することなどないかもしれないが。

 恐らく『儚い羊たちの祝宴』に登場する「バベルの会」の会員たちは、『虚無への供物』の「アラビク」常連客や『匣の中の失楽』の例会のメンバーと同じだ。奇書に触れ狂気を育み、虚構と現実の境目をどこか曖昧にしたまま生きる人々だ。

 けれど、彼らには前者二作品の登場人物たちとの決定的な違いがある。

 明らかに「格落ち」なのだ。これは、作品の質がどうとか、そういう批判的な意味合いではない。

「バベルの会」の会員たちは、皆ポーや乱歩に耽溺し、現実とミステリとを重ね合わせ、その境界線がどこか曖昧になったまま生きている。それは『虚無への供物』や『匣の中の失楽』と同様だ。……だが、彼らはあくまで「羊」なのである。現実と幻想とを取り違えたまま、その境界の上で危うげに揺れたまま、けれどそこを踏み違える事は決してない。彼女たちは事件の引き金を引かないし、殺人事件の推理に嬉々として乗り出したりもしないのである。

 厳密に言えば、一人だけ例外がいる。第一の短編『身内に不幸がありまして』に登場するお嬢様、吹子は、バベルの会の会員であり、そして殺人者だ。だが、彼女はバベルの会の泊りがけの読書会には参加しない。故に「羊」であることから免れる。

 第五の短編『儚い羊たちの晩餐』は、バベルの会から追い出された現実主義者であるところの主人公鞠絵が、その生活の中で徐々に心を狂わせ、遂には泊りがけで読書会を行っていた会員たちを、家付きの料理人に皆殺しにさせる至る物語である。つまり作中における「羊」は犠牲となった会員たちであり、「晩餐」というのは、彼女たちの肉を使って作られた料理のことだ。料理人に殺人を命じた主人公鞠絵は、その「料理」が大量の材料を必要とすることを知らず、知らず知らずのうちに虐殺を命じてしまったことに気がついて気を狂わせる。彼女は、最後まで現実側に足を着いた人間だった。故に彼女もまた「羊」ではない。

 羊は、元より弱い生き物だ。それに「儚い」が付く。犠牲となったバベルの会の会員が皆、虚構と現実の間に身を置きながら、けれどもどこまでも無害な生き物であったことが強調されている。

 冒頭『身内に不幸がありまして』の吹子と、ラストの『儚い羊たちの晩餐』の鞠絵以外は、バベルの会の会員は直接登場してこない。間に挟まった3つの事件の犯人は、それぞれ会員たちと面識のあった使用人だ。故に、彼らも「羊」ではない。

 つまり『儚い羊たちの祝宴』というのは、その全編を通して「儚い羊」が、より強い狂気を抱く者、あるいは徹底して現実に生きる者に殺されるに至る物語なのである。

 一方的に殺される「羊」を私達は知らない。彼女たちは事件の加害者ではないから独白をすることもないし、惨殺された時の風景については描写されていない。……ただ、恐らくは、無力に、震えながら逃げ惑ったのであろう、ということが想像される。

 彼女たちは虚構と現実をないまぜにしながらも、虚構で現実を上書きするような力を持たない。故に『虚無への供物』とも『匣の中の失楽』とも違う、彼らのようにはなりきれない、あくまで「儚い」羊なのだ。彼女たちの夢想は、毒にも薬にもなりはしないのである。

 避暑地のサンルームで次々とその命を奪われる、無垢ではないが無力な乙女たち。彼女たちの横顔はわからない。ただぼんやりとしたイメージがあるだけだ。私達に独白をするのは、皆「羊」になることを免れた者たちなのだから。

 そもそも『晩餐』の主人公鞠絵が料理人に彼女たちの殺人を命じたのは「バベルの会」を除名されたことが原因だった。そしてその理由は前述の通り「現実に足をつけている彼女は、羊たちにとって強すぎた」からである。逆に言えば、羊たちは弱すぎた。そして、その弱さ故に殺されるのだ。「まるでミステリのような」動機と方法で。

 読了した後に調べて知ったのだけれど、この短編集は「『そんな理由で殺すなよ』とツッコまれるような奇妙な動機のシリーズで揃え、オチは読めるが皆それを言うのを待っているという落語的なものを念頭に置いていた」という。そういうところがまた、非常にアンチミステリ的だと、素人目線ながらそんな感想を抱いた小説だった。