早起きのこと

 早起きをした。正確に言えば早朝になんとなく目を覚ましてしまって「このまま二度寝をすると絶対に起きるべき時間に起き上がれず、会社に休みの連絡を入れる羽目になるな」という予感があった。それで、取り敢えずベッドから身体を起こしてみた。……暇だ。やることがない。目を覚ましてしまった、という言葉とは矛盾するけれど、横になっていたらまた眠ってしまいそうだ。でも眠ったらきっと起きられない。

 取り敢えずシャワーを浴びることにした。シャワーを浴びるのは私の中で外出のための儀式のようなもので、誰かに会う時は必ず家を出る前にシャワーを浴びないと気持ち悪いし、そもそも基本的に出かける準備を開始する直前の時間まで眠っていることが多いので、目も覚めない。

 そういうわけで、シャワーを浴びた。化粧をする時間もたっぷりあるが、化粧する気は起きなかったので放っておいた。こういう時に無理をすると後から皺寄せがくることは、休職期間の中でなんとなく理解してきている。

 お風呂から上がって服を着た。化粧をしていないことを(申し訳程度に)隠すためのマスクを装着したら、これで出かける準備は万端だ。この時点で朝の5時半。始業時間は9時半である。非常に困った。困ったので、取り敢えずそのまま外に出てみることにした。ついこの間からプレイし始めた『ハリポタGO』を起動したら、近くに捕まえられるキャラクターが湧いていた。折角だから本日分のデイリーミッションを消化してしまおう。アプリ内の時刻表記を見ると「夜明け前」とある。時間によって出てくるキャラクターが変わるのなら「夜明け前」のキャラクターと出会う機会は貴重かもしれない。なにぶん、夜明け前に出歩いているのなんて、今日みたいな日か、はたまたしこたま飲んで意識を朦朧とさせたまま朝帰りする日かのどちらかだ。

 そんなわけで、2時間ほど家のまわりをぶらぶらと歩いた。普段滅多に足を踏み入れない散歩道を辿ってみたら思いがけない地名に行き当たったり、犬を連れた人たちが公園に集まったりしていて新鮮だった。私の中で「朝」とは、心と身体を引きずって、眠い目を擦りながらシャワーを浴び、なんとか家の外に出かけていくに至るまでの苦しい時間でしかなかったけれど、こんな風に「朝」をちゃんと過ごしている人たちもいるのだ。

 まだ時間に余裕があったけれど、うっかり迷ったりすることも考えて(何しろゲーム上のマップを見ながらあてもなくうろうろしていたのだ、自分の正しい現在位置など把握していない)少し早めに会社に行った。

 途中、コンビニでカフェオレとパンケーキを買った。レッドブルとかモンスターエナジーという選択肢もあったけれど、それはこの、体験入学した「朝の時間」にはふさわしくないような気がした。

 そんなこんなで無事パンケーキを食べ終わって、食後の一服も吸って、誰もいない職場でぽちぽちとこのエントリを書いているのだけれど、なんと、今更猛烈な眠気と、多分睡眠不足による頭痛が襲ってきている。できることなら今すぐに帰りたい。私に「朝」は、まだレベルが高すぎたみたいだ。

コミュニケーションの波のこと

 上手く言えないのだけれど、自分の中に「コミュニケーションのしたさの波」みたいなものがある。それが最高潮のときは新しい交友関係を広げようとSNSに登録したり、友達の紹介で知らない人と積極的に会ったりするのだけれど、それが一番低調な時は誰にも会いたくないしSNSも見たくないし、なんならブログも書きたくない。たとえ誰にも読まれていなかったとしても「そこにいるかもしれない誰か」に向かって文章を書くことは立派なコミュニケーションだからだ。

 厄介なのは「コミュニケーションしたい期」に出会った多くの人が、私のことを社交的で、チャレンジ精神旺盛で、遊びに行くのが大好きな人だと思ってくれることだ。だから、その場限りではなくて次の時にもお誘いがかかる。これは本当にありがたいことだ。私とまた会いたい、交流を持ちたいと思ってもらえているということだから。

 けれどそういうとき、あいにくこっちは「コミュニケーションの波」が最底辺だったりする。会うどころか返事をするのも億劫になって、「ちょっと考えます」の一言を返すのに何時間も、ひどい時は何日もかかったりする。それでも、その人達の中にある「社交的で明るい夜子さんのイメージ」を崩したくなくて、身体を引きずって会いに行ってしまう。

 実際、顔を突き合わせて会話をしてみればなんてこともなくて、その場は楽しく過ごせることが大半なのだけれど、やっぱりそういう時は帰ってきてからどっと疲れる。「楽しい会話の場」で前借りしたエネルギーを補填したくなって、次の日会社を休んだりしてしまう。

 向こうからしてみればコミュニケーションの波なんて知ったことじゃないし、遊びに行って疲れちゃったから休みますなんていうのが通用する世の中でないことは百も承知なのだけれど、自分のコミュニケーションの波に振り回されるのがやめられない。別に、断ったからって嫌われるわけじゃないのに。

 理由の一つはたぶん「コミュニケーションの波が最高潮のときの私」が理想の自分だからなんだろう。せっかく人様の中に構築できた「理想の私」を殺したくなくて、それを維持するために無理を通してしまうのだ。これはどう考えても私のわがままである。

 もういい年齢なんだから、どうにかして改めたいなあ、と思いながら、今日もLINEに来た「飲みに行かない?」という連絡に、テンション高めのスタンプで返してしまう。

ブログの模様替えのこと

 形から入るタイプだ。部屋を片付けたら新しい家具や雑貨を買うし、外へ出歩くようになると新しい服を買う。職場でチームが変われば新しい文房具や机上台が欲しくなる。そういうタイプだから、なにか行動を起こそうと思い立つと、とってもお金がかかる。本来なら買わなくていいもの、しなくていいことまでしたくなるからだ。これが悪い癖であることは理解している。私の浪費癖の一端は、間違いなくここに原因がある。

 そんなわけで、部屋の片付けが完遂していないのに膝上机を買ってしまった。今の家に来てからずっとyogiboのソファを使っていたのだけれど(あの、人をダメにするソファの海外版みたいなやつだ)座るとちゃぶ台から結構な距離ができて、いつもパソコンを触っていると首が痛いなあと思っていたのだ。それで、ソファに身を沈めて膝の上にパソコンを載せても大丈夫な、膝上机を買った。まだ片付け、全部終わってないのに。もう「まともな生活を送れる」気がしているのだ。当然ながら座り作業が快適になった程度で私の生活は劇的に改善したりしない。そんなことはわかっている。わかっているのにむやみに買ってしまう。

 それで、膝上机を買ったものの「新しくしたい欲」が全然収まらなかったので、ブログのデザインを一新した。これならお金もかからないし、お手軽に「何かが変わった」感が出せる。これで今日のところは安心だ。取り敢えず、部屋の掃除が終わるまではもう何も買わないことにしようとだけ思っている。服も、本も、ゲームも、雑貨だって。

生活を「する」ということ

 休職中、いや休職をするずっと前から「生活をしていない」という感覚があった。ご飯は食べているし睡眠もとっている。生きるのに必要最低限のことは(せざるを得ないので)していたけれど、それはどちらかというと「生きながらえている」という感じで、地に足をつけて「日々の生活を送っている」という実感が無かったのだ。

 実際、最低限度命を繋ぐのに必要なこと以外は、ほとんど何もしていなかった。洗濯物は部屋の隅に山のように積み上げたまま放置していたし、部屋の掃除なんてまったくと言ってよいほどしていなかった。当然自炊なんてするはずもなく、コンビニでその日その時食べる分だけを買ってきて、食べ終わったゴミは買ってきたときのビニール袋に入れて、口を縛って放置していた。

 復職して、毎朝8時前には起きて、シャワーを浴びて着替えて人前に出ていく……という行為を繰り返すうち「生活をするか」という気持ちが湧いてきた。それでとりあえず溜まった洗濯と部屋の掃除をしようと思いたち、机の上をきれいにして、ずっと出しっぱなしにしていたこたつを片付けたところでエネルギーが切れてしまったので、この記事を書いている。流石にたった1日で部屋がきれいになるとは思っていないし、自分がいわゆる「ていねいなくらし」ができるようになるとも思わないけれど、もう少しだけ頑張れると思っていた。せめてあと一回くらいは洗濯機を回したいし、今週いっぱいくらいかけて「床に寝っ転がっても大丈夫な部屋」にしたい。その時はじめて私は「生活ができる」状態になって、本を読んだり映画を見たりすることもできるようになるのだと思う。……たぶん。

『WE ARE LITTLE ZOMBIES』のこと

littlezombies.jp

『WE ARE LITTLE ZOMBIES』という映画を観に行った。それぞれの理由で両親と死別した少年少女たちが、火葬場で出会いバンドを結成するという、すごく簡単に言えば「スタンド・バイ・ミー的な」映画だ。最初は邦画にありがちな「冴えない/斜に構えた俺らの青春サクセスストーリー」的な話なのかと思っていたのだけれどそんなことはなくて、どちらかというと終始鬱屈していた。

 今から感想文を書くのだけれど、この感想文は一切のネタバレなどに配慮していないのでまだ観ていない人は自衛してください。

 最初に観たときに思ったのは「邦画的な邦画だな」ということだった。これはどちらかというと演出の話だ。個人的な感想だけれど、なぜか邦画には、洋画と比べて登場人物の妄想シーンがギャグとして出てくる割合が高いように感じる。その場から地続きで妄想が始まって、登場人物がおかしな言動をして初めて「おかしいぞ」ということが観客にもわかり、そこで周囲の登場人物や主人公自身からのツッコミが入って現実に戻る、みたいなシーンが凄く多い気がする。サンプルが偏っている自覚はあるのだけれど。『WE ARE LITTLE ZOMBIES』にも、そういうシーンが盛りだくさんだった。ちょっとハズしたギャグって言うんだろうか。独特の間があった。

 最後まで観て思ったのは「これは何映画なんだろう」ということだった。ボーイミーツガールではない。青春映画ではない。サクセスストーリーでもない。展開は終始鬱屈としていて、バンドが解散するに至る事件の顛末には社会風刺っぽい一面もあるけれど「よし、現代社会に毒を吐いてやるぞ!」という気概も感じない。なので『WE ARE LITTLE ZOMBIES』をなるたけ短く説明しようとすると、最初に言った「それぞれの理由で両親と死別した少年少女たちが、火葬場で出会いバンドを結成するという、すごく簡単に言えば『スタンド・バイ・ミー的な』映画だ」ということになる。個人的にはこういうタイプの映画はあまり観ないのだけれど、たまーに映画館に行って観る分にはいいかもしれないな、と思った。観るのに身構える必要もないし、観終わったあとげっそりと疲れてしまうこともない。とっても「ちょうどいい」映画だ。

 唯一特筆すべき点があるとすれば、主人公たちが結成したバンド「LITTLE ZOMBIES」がレトロゲームの音源を使用して曲を作っており、代表曲がとってもチップチューンっぽいことだろうか。レトロゲームに造詣が深くないくせにドット絵とチップチューンが大好きな私には、映画全編を通してドット絵とピコピコ音が演出の要を握ってくれるのはとても嬉しかった。

 映画館で邦画を観たのは久々だけれど「たまにはこういうのもいいかな」と思わせてくれる映画だったと思う。

 

カウンセリングのこと

 先日主治医のところへ通院したら(内容はいつもの経過報告と、復職しました、という改めての挨拶だ)カウンセリングを勧められた。カウンセラーと2人で小奇麗だけれど決して圧迫感のない個室に入り、あれこれと取り留めのないことを話す、あれだ。

 人生のうちで、いわゆる「カウンセリング」を行う機会はあったけれど、どれも思ったような効果は得られなくてすぐにやめてしまった(まあ、そもそもカウンセリングに対して劇的な効果を望むことのほうが間違っているのかもしれないけれど)。

 理由はいくつかある。第一に、私は人前で話すのが苦手だ——というと付き合いのある友人からは大層驚かれるのだけれど、本当に苦手なのだ。

 議題が決まっている場合はまだ良い。「こういった人権問題についてあなたはどう思いますか?」とか「5分程度で自己紹介をするスライドの資料を作ってください」とかいう場合は、それはもう自信たっぷりに、はきはき話せる。こういう場での話術はそれなりにある方だと自分でも思っているし、小さな頃から「夜子さんはみんなの前で自分の意見をはっきり言えて偉いわねえ」と言われてきた。

 でも、小さな個室で「あなたの考えをなんでも受け入れますよ」というスタンスの人と一対一で、人権問題についての質問でも、その場の空気を盛り上げてツカミを良くするための自己紹介でもなく「あなた自身の気持ちについて、正直にお話してみてください」と言われると、突然言葉が詰まってしまう。「苦しかったですか?」とか「辛いですか?」と聞かれると、更に返答に困る。辛くて苦しい、のかもしれない。けれどそれを声に出して誰かに訴えることが恥ずかしすぎて、涙が出そうになって、これ以上口を開いて醜態を晒すまいと必死で口を閉じているうちにまた頭の中がぐるぐるして泣きそうになる。結果として相手の質問には思うように答えられず、黙って目をうるませているだけの時間が過ぎていき、それが申し訳なくて更に嫌になる。普段の私を知っている相手だったらびっくりするような「内気で自信がない」私になってしまう。

 もうひとつ、私がカウンセリングが苦手な理由が、そうして意を決して口にした「○○で苦しかったんです」とか「××で辛いんです」という言葉を、カウンセラーにオウム返しにされてしまうことだ。「なるほど、○○で苦しかったんですね」「××で辛いんですね」……そんなことはとうの昔からわかっているのだ。悩みに悩んで、人様の前に出しても恥ずかしくないくらいに細部の気持ち悪いところを削ぎ落として、それでようやく吐き出した「辛いんです」に、事実確認のような言葉が返ってくる。多分それがカウンセリングの鉄則なのだろうけれど、私にはあまり合わなかったみたいだ。

 これらのことが嫌になって、結局私はカウンセリングを途中でやめてしまうことが多かった。対面が難しいなら文章で…と思ってメールサービスに登録したこともあるけれど、メールでのカウンセリングは対面より更に「オウム返し感」がわかりやすい。私の書いた文章をそのままコピペして「〜ということですね」と返しているんじゃないかと思うことすらあって、結局辟易してやめてしまった。

 多分、カウンセラーの人がひとつひとつ相手の言葉をオウム返しにして確認してくるのには、私のような素人には理解できない、大切な意味があるのだと思う。

 私が「自分自身の辛さや感情を、人に面と向かって話すのがつらい」というのは完全に私側の問題だし、もう一度、思い切って受けてみるのもありかもしれない……と、薄々思い始めた。次の通院は2週間後。思い切ってカウンセリングを受けてみるのもありかもしれない、と考え始めた今日このごろ。

出社までのハードルのこと

 前のエントリに書いたように、今週の頭から復職している。いきなりフルタイムで5日間フルは若干の不安があったので、初週は時短勤務をさせてもらうことになった。……が、もう既に体力の限界を感じている。単に今まで外出していなかった肉体的な反動が来ている、というよりも「毎日決まった時間に家を出て多くの人が集まる場に出ていく」ということそれ自体がストレスになっている感じだ。

 とはいえ、いつまでもそんなことを言っていても仕方がないので「朝出社がつらい」の中身を細かく砕いて内訳を洗い出してみることにした。目の前に立ちはだかる問題が大き過ぎてどこから手を付けたら良いか分からない時は細かく分解してみるといいよ、となんか偉い人が言っていた気がするからだ。

そもそも起きるのがつらい

  昼夜逆転の生活を送っていたせいで夜に眠れず、朝方に多少まどろんだ程度で起き出す羽目になるので肉体的に起き上がるのがつらい……という、なんとも当たり前で贅沢な話である。これについてはもう「さっさと寝てまともな時間に起きる」以外に対処のしようがない。ただし、(これは休職する前からそうだったのだけれど)実際は前日にお酒も飲まずまっとうな時間に眠った翌朝に限って起き上がれず、結果として会社を休んでしまう……ということが多かった。故に、肉体的な疲れと眠気が原因で会社に行けない、というケースは極稀なのだと思う。

業務内容がつらい

 休職に至った理由の中では、これが一番大きなウエイトを占めていたと思う。人間関係は別にそこまでまずくなかった。できれば関わりたくない人はいたけれど、自分の席に座っているだけで誰かから罵詈雑言を浴びせられたりいじめられたりすることは無かったのだから。

 業務量が多すぎて大変だった時期はあったけれど、この頃はむしろ会社を休むなんて考えられなかった。その日こなさなければならないタスクが山積みで「嫌だなあ」なんて考える暇もなかったからだ。業務の量が落ち着いてきて、それをこなす上で必要な「つらい会話」が増えてくるに従って「どうしても今日やらなくちゃいけないわけじゃないし、会話をするのにパワーがいるから休みたい」というメンタルになってしまったのだ。思えば子供の時から、夏休みの宿題は溜め込むタイプだった。

 けれど復職して新しいチームになったばかりの私には、これも関係がない。

身支度がつらい

 朝起きて仕事に行くまでには「身支度を整えて社会人として恥ずかしくない状態」になる必要がある。私の会社は私服勤務で、皆かなりラフな格好で職場に来ているので、ビジネスカジュアルがどうとか気にする必要はない。ないのだが、起きてから会社に行くまでにはおおよそ以下の準備を必要とする。

  • シャワーを浴びる
  • 顔を洗う(大体シャワーと一緒に済ませる)
  • 服を着る
  • 化粧をする

 このうち、シャワーについては前日に済ませておけば問題ないのだけれど、夜にお風呂に入らず朝シャワーを浴びるという習慣は子供の頃からのものなので今更変えようがない。というより、私自身出かける直前にシャワーを浴びなければ気持ちが悪い。夜歯磨きをしないと寝付けないのと同じようなものだ。面倒だからといってシャワーを浴びないのは周囲の迷惑にもなる。髪の毛がギトギトの相手と一緒に仕事をしたくはないだろう。

 服を着る、というのも社会人には必須の行為だ。着る服を用意するには洗濯をする必要があるが、これも結構ハードルが高い。うちには洗濯機がないので近くのコインランドリーまで洗濯物を持っていき、回し、持って帰って干すという一連の行為が必要になる。休職前はこれが唯一の「土日にこなさなければならないタスク」だった。でも、これにしたって「ごちゃごちゃ言ってないで頑張る」以外の選択肢はない。

 最後の化粧だけが、唯一ショートカットできそうなステップだ。先程も言ったように私の職場では服装的な配慮はほとんど求められないので、女性だろうがジーンズにTシャツ、スニーカーにすっぴんで出社しても何も言われない。考えれば考えるほど緩くて優しい職場だ。なんで休職なんてしたんだろう。

 

 こうして中身を分解してみると、今の私にとって「朝出社することのつらさ」は、ほとんど「身支度を整えてたくさんの人間が出ていくことのつらさ」と同義であるらしい。確かに同じような理由で友達と遊びに行く予定をドタキャンしてしまったことが何度もある。中でも服を着ることとシャワーを浴びることは避けられないので、なるべくこの「つらさ」を軽減しようとするのなら、あとはもうすっぴんで出社するしかない。

 ……というわけで、今日は化粧をせずに会社に出てきた。当たり前だが、誰も「今日はすっぴんなんですね」なんて言ってくる人はいない。もしかすると同じ女性社員の中には「あの人すっぴんかな」と思っている人がいるかもしれないが、そもそも、よく考えたら同僚の顔なんて毎日そんなに注視していないし、仮に「すっぴんかな」と思ったところで、別に気分を害するわけでもない。

 そういうわけで、今日から「出社がつらい」と思った時にはメイクをショートカットすることにした。なんとなくスースーするような気持ちはあるけれど、会社を休むよりはブサイクな顔をブサイクなまま、それでも出ていった方がよほどマシだ。唯一気をつけることがあるとすれば、普段の化粧を濃くしすぎないことだろうか(だってほら、すっぴんになったときにギャップが激しいから)。

 幸いにも、周りの人たちはみんな「取り敢えずは無理しないこと、出社することに慣れることが先決だから休んだり早退したりは気にせずにね」と言ってくれている。その優しさに甘えるだけ甘えて、すっぴんにジーンズにTシャツで、取り敢えず夏だけでもなんとか乗り切りたい。